その牧場には“不可能”が群れていた。
瓦屋根の堆肥舎はうずくまるように潰れ、電柱状の風力計が横たわったままで道を塞ぐ。身をよじったアスファルトはうねり、黒い裂け目が地を這っていた。
能登半島の先端で日本海の荒波に囲まれた珠洲ホースパーク。人と馬の共生を志す1万㎡の草原に賑わいは戻っていない。営業再開時期は今も未定だ。敷地内の水道管が壊れており、完全復旧には半年以上を要するという。隣の空き地では集められた瓦礫が山を築き、周辺には家屋が倒壊したままの集落が点在する。
元日から時を止めたような光景に立ち、5頭のサラブレッドと1頭のポニーはただただ顎を動かしていた。静寂を乱すのは咀嚼音だけ。草をすり潰す歯と歯とのリズムは、たくましき生命力の躍動そのものだ。
牧柵の傍らには、丸眼鏡の奥で目尻を下げる男がいる。かつて調教師として国内外でGI38勝を挙げ、名を世界中に馳せた。定年まで14年も残して勇退を決め、自身のルーツでもある能登へ移り住んで3年。そう、ここが角居勝彦の現在地だ。
丸刈り頭に無精髭の60歳は、うつむかず前を向いている。柔らかな顔で固い決意を言葉にした。
「元に戻るのではなく、1歩でも先へ進まないといけないと思ってます」
今年の1月1日は角居にとってただでさえ慌ただしかった。家族の住む滋賀で年が改まると、夜闇の中で金沢へと車を走らせた。向かった先は天理教の鹿島大教会。午前6時からの元旦祭に列席すると再びハンドルを握り、のと里山海道を北上した。競馬界を離れてからは、高齢の母から継いだ輪島市内の布教所に住み込んでいる。その2階で午後4時10分を迎えた。
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