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[もう一つの海外挑戦]ウオッカ「最強牝馬の血の行方」

2022/05/21
競馬史に残る数々のドラマを演じてきたヒロインは、3年前の春、配合のための滞在先で静かに息を引き取った。7頭の仔を出産した引退後の日々はどのようなものだったのか。最期を見届け、産駒も管理する英国調教師夫妻が振り返る。

 2007年5月27日。快晴の東京競馬場は大歓声に包まれた。

 この日、行われた第74回東京優駿。通称・日本ダービーの最後の直線。出走馬中唯一の牝馬が、17頭の牡馬勢を尻目に敢然と抜け出した。

「ウオッカだ!!」

 牝馬によるダービー制覇は実に64年ぶり。とりまく環境が大きく変わった現代競馬においては史上初の快挙と言っても過言ではないだろう。この日、東京競馬場に足を運んだファンのほとんどが初めて見る光景に酔い、歓声をあげた。

 その後、安田記念連覇や天皇賞・秋にジャパンカップ制覇など、GIを計7勝。名牝の名をほしいままにした彼女だが、現役引退の時は唐突に訪れた。ダービー制覇から3年後の2010年、ドバイへ遠征した。以来、彼女が日本の地に降り立つことがなくなるとは、ほとんどの人が思いもしなかっただろう。

 ドバイワールドカップの前哨戦であるアル・マクトゥームチャレンジラウンド3に出走したウオッカは、らしからぬ走りで8着に敗れた。すると、レース後2度目の鼻出血がみられたことで、本番に駒を進めることなく、突然、引退が発表された。同時に引退後の繋養先がアイルランドと明かされ、帰国の途は断たれたのだ。

 しかし、これをもって日本ダービー馬と日本の競馬の関係までもが絶たれたわけでは決してなかった。ヨーロッパで種付けされて生まれた彼女の子供達は、続々と日本へ連れて来られた。'11年生まれの初仔はボラーレと名付けられ、母と同じ角居勝彦廐舎からデビューすると、2番仔のケースバイケースも、3番仔のタニノアーバンシーも、さらにその下のタニノフランケルやタニノミッションも皆、日本にやってきてデビューした。偉大過ぎる母ほどの活躍をみせる馬はさすがにいなかったが、タニノアーバンシーとタニノフランケルは共に4勝をあげ、いずれも重賞に出走。とくにタニノフランケルは小倉大賞典2着や中山金杯3着など、グレードレース制覇までもう一歩のところまで迫ってみせた。

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photograph by Masumi Seki/Studio Leaves
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