15年前の鹿児島で、一枚しかない甲子園の切符をかけて二人のエースは戦った。福岡から強豪私学に入った左腕と、地元の県立進学校から夢の聖地を目指した長身右腕。鎬を削った両投手はプロでの再戦を経て、今何を思うのか。(初出:Number834号[好敵手クロスインタビュー(1)]杉内俊哉×木佐貫洋「薩摩の両雄、頂をかけて」1998)
毎年7月21日になると、木佐貫洋の胸には一つの思いが去来する。
「あの時、勝っていれば……」
15年前の1998年7月21日、高校3年夏の鹿児島県大会決勝で、木佐貫のいた県立川内高校は、杉内俊哉を擁する鹿児島実業と対戦。3対1で敗れ、甲子園出場の夢が断たれたのだった。
「中迫(俊明)監督からは『全部完封しないと甲子園には行けないと思え。お前はみんなの人生を背負っているつもりで投げるんだぞ』と言われていました。鹿実には杉内がいるし、彼に投げ勝たなければ絶対に甲子園には行けないと思って、3年間やってきたんです」
中学校の教員をしていた中迫が川内高校に赴任したのは、木佐貫が入学したのと同じ年である。
「木佐貫が投げるボールを初めて見た時、これはすごいと思いました。3年の夏までにプロのスカウトが注目するようなピッチャーにできなければ、私は監督失格だと思ったほどです。甲子園出場を期待する地元からのプレッシャーも相当なものでした」
鹿実と決勝を戦った'98年の川内は、県内最強の呼び声高いチームだった。中学時代から県下に名前が知れ渡っていた木佐貫が、鹿実の久保克之監督(現名誉監督)からの再三の誘いを断り、地元の川内に進学したことがきっかけで、木佐貫の学年には地元のリトルリーグや少年野球出身の有力選手たちが結集していたのだ。
川内が甲子園初出場を果たすには、何としても強敵・鹿実を倒さねばならない。
一方の杉内も、2年連続の甲子園を目指して、負けるわけにはいかなかった。
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photograph by NIKKAN SPORTS