東西のトレセンをはじめ、現在は多くの民間牧場にも坂路コースが標準装備されている。その始まりは1985年の晩秋、栗東トレセンにオープンしたちっぽけな坂路だった。
本格的な調教を行うには距離が短すぎたため(全長394m)、当初は利用する人馬も少なく、コースは常に閑散としていたが、その後、3回にわたる延長工事を重ねてスケールアップ。黎明期から坂路調教に取り組んできたパイオニアたちが結果を出し始めると、追随する者が殺到し、革新的といえた調教方法は目を見張る勢いで日本の競馬に根を下ろしていった。
そんな坂路調教の「申し子」と呼ばれた馬がミホノブルボンである。
ミホノブルボンがデビューした'91年、坂路の入場頭数(1日平均)は500頭を超えた。同年にはトウカイテイオーが坂路調教馬初のダービー制覇を達成。コースの全長は785m(現在は1085m)、調教タイムの計測距離は500m(同800m)と、サイズは今より少し小さかったものの、坂路調教自体はすでに一定の知名度を得ていた。それでも「坂路調教といえばミホノブルボン」とのイメージが浸透しているのは、翌年のクラシックに挑む前、調教師の戸山為夫が実に興味深いテーマを提示したからだ。
本質はスプリンターといえる馬のスタミナを、ハードな坂路調教によって強化し、距離の壁を乗り越えられるか――。
戸山にとってそれは、調教師人生の集大成となる挑戦だった。
「スタミナは努力(調教の鍛錬)でカバーできる」という理念
良血馬や高額馬と縁が薄かった戸山は、調教師免許を取得('64年3月)した当初から「素質では見劣る馬を鍛え上げて強くする」、「スピードは天性の才能、しかしスタミナは努力(調教の鍛錬)でカバーできる」といった理念を掲げていた。
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