#1058
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[番記者が見た陰影]語る力と、語らぬ力

2022/09/08
無二のカリスマで軍を統べ、知略を巡らせ敵を討つ。よく似た2人は、メディアの前では真逆を貫いた。両将を間近で支えた関係者の証言をたどって、その発信力とチームマネジメントの意図を探った。

 野村克也は1935年に京都府網野町(現京丹後市)で生まれた。落合博満はその18年後、秋田県潟西村(現男鹿市)で誕生する。どちらの故郷も日本海が広がり、冬になれば鈍色の空から容赦ない雪と風が吹き付ける。そんな小さな町で、のちに三冠王として名を残す2人の大打者は18歳まで育った。しかし、互いに球史から消えていても誰も気づかない。紙一重の野球人生でもあった。

 父・要市を戦争で亡くした野村家は極貧を強いられた。少しでも早く働くことが自分の道だと考えていた野村が峰山高校へ進学できたのは、学業優秀だった兄が大学進学をあきらめ、学費を捻出してくれたおかげだという。野村の野球人生は15歳で終わっていても不思議はなかったのだ。

 落合は運動部特有の理不尽な上下関係に、嫌悪感を示す少年だった。当時としては決して厳しくはなかった秋田工を選びながら、7度の退部を繰り返す。しかし、落合の才能を買っていた指導者が、7度説得し、連れ戻してくれた。野村が進学を断念していたら、落合が野球部に戻っていなかったら……。日本プロ野球界の歴史は大きく書き換えられていた。

 ともに三冠王。入るときは誰にも注目されずくぐった門を、大打者として出た。「金のわらじを履いてでも探せ」と言われる姉さん女房との出会いが、運命を切り開く分岐点であったか。月見草は南海の選手兼任監督の任を解かれてもなおロッテ、西武のユニホームに袖を通した。ロッテでスタートしたオレ流は、大型トレードで移籍した中日から、できたばかりのFA権をさっさと行使して巨人に移る。3年後にはその球界の盟主とも袂を分かち、日本ハムで静かにバットを置いた。

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photograph by Naoya Sanuki

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