#1042
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[駒澤大学]大八木弘明「言葉の力で歩み寄る」

2021/12/16
連覇に挑む名伯楽はエースとの出会いから多くを学んだ。藤田敦史、宇賀地強、中村匠吾、そして、田澤廉へ――。その系譜を辿ると、指導スタイルの変遷が浮かび上がる。(初出:Number1042号[駒澤大学]大八木弘明「言葉の力で歩み寄る」)

1984年の箱根駅伝。25歳の大八木弘明は、5区の小田原中継所で襷を待っていた。大八木青年は福島・会津工高を卒業後、実業団ランナーとして走っていたが、10代に会津の地でラジオを聴き、憧れを抱いていた箱根駅伝がどうしても忘れられなかった。ついには会社を退職、川崎市役所で働きながら駒大の夜間学部に通い、箱根への切符をつかんだ。

「実業団駅伝でも主要区間を走ってましたから、プライドもあったし、自分がエースという自覚はありました。1年生の時は5区を任されたんですが、かなり前と離れててね。憧れの箱根駅伝だったけど、無我夢中で走り出したことしか覚えてないなあ」

 見事区間賞。ただし、単純に箱根を走ることがゴールだったわけではなく、自分には「責任」があると思っていた。

'84年から3回箱根を走り、5区と2区で区間賞。'87年は年齢制限のため出場できなかった ©Getsuriku
'84年から3回箱根を走り、5区と2区で区間賞。'87年は年齢制限のため出場できなかった ©Getsuriku

「当時の箱根駅伝は出場校が15校。今よりもさらに狭き門でしたから、出られればいいやと思っている学生も多かったんです。でも、私はそれだけじゃダメだと思った。やっぱり、勝負できるチームじゃないと面白くない。エースである自分が区間賞を取るだけじゃなく、駒大を勝つチームに私は変えたかった」

 その思いは'95年から駒大のコーチに就任することで実現する。就任2年目には復路優勝を達成し、5年目の2000年には初めての総合優勝。以来、箱根駅伝の総合優勝は7回を数えたが、多くの有力選手を育てたなかで数々のエースと出会ってきた。大八木の思うエースの要件とは何か。

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photograph by Takanori Ishii

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