バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得し、
一躍国民的ヒロインとなった有森裕子。
しかし、日本代表を決める選考は大きな論議を呼んだ。
最後の一枠を争うのは有森と松野明美。
世論は小柄で可憐な松野を支持する――。
21年を経て公開された有森の日記には、
長距離ランナーの孤独な心中が余すところなく描かれていた。
一躍国民的ヒロインとなった有森裕子。
しかし、日本代表を決める選考は大きな論議を呼んだ。
最後の一枠を争うのは有森と松野明美。
世論は小柄で可憐な松野を支持する――。
21年を経て公開された有森の日記には、
長距離ランナーの孤独な心中が余すところなく描かれていた。
私が日記をつけ始めたのは高校の頃。スケジュールや練習メニューを書くのはもちろんですが、書くことによって、体だけではなく、自分のメンタルの状態を確認できます。きれいに書けている時もあれば、感情的にワーッと書いて字がグジャグジャの時もあるので。
日本体育大学を卒業して、小出義雄監督率いるリクルート陸上部に入ったのは1989年4月。バブル期でお給料もよかったし、いわゆる栄養費もたくさんもらっていました。
ところが周囲の選手は監督のメニューにグチをこぼし、集合時間に遅刻することさえありました。私以外の選手はほぼ勧誘されて入部したエリートばかり。「入ってあげたんだから、やってもらって当たり前」という考えを持っているように、余裕のない私はその当時、感じていました。
走ることでお金をもらっている以上はプロであるはずなのに、文句ばかり言っている周囲をいつか必ず、絶対に抜く! と。
でも、この世界は実力がすべて。高校、大学時代にこれといった実績のない私は、「今に見てろ」とひたすら練習に打ち込みました。
大阪国際女子マラソンで日本新記録を出した日。
私は故障の多い選手です。先天的に股関節亜脱臼があり、小学校2年の時にはダンプカーに足首を轢かれたこともあります。身体のバランスが悪いんですね。
'90年の大阪国際女子マラソンで6位に入り、初マラソンの日本新記録を作った時にも腸脛靱帯(腰から膝の外側まで伸びる長い靱帯)の付け根が痛くなって、水をかけながら走っていました。治るまでには、結局半年以上かかりましたね。
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photograph by Takashi Shimizu