高校球史に残る名勝負となった、'06年決勝の早実との死闘。
その場所に辿りつくまでに数多の逆境を乗り越えてきた怪物エースは、
追い詰められるほどに能力を高めていった。
その場所に辿りつくまでに数多の逆境を乗り越えてきた怪物エースは、
追い詰められるほどに能力を高めていった。
――もし、春の甲子園に出場していタラ。していレバ。
史上初となる「夏春夏」の3連覇も夢ではなかったのではあるまいか。
'04年夏に初めて全国制覇を果たした駒大苫小牧は、続く'05年夏も全国の頂点に立った。大ざっぱな分け方だが、1度目は攻撃力、2度目は投手力で勝ち取ったと言っていい。
その2度目の優勝のとき、背番号11番をつけていた田中は、2年生ながら事実上のエースとしてチームを牽引していた。
京都外大西との決勝戦、田中は最終回を3者連続三振で締めた。しかも、最後のバッターを空振り三振に仕留めたストレートが、当時の自己最速となる150キロをマーク。そのときの衝撃は畏怖に近かった。
田中は、当時のことをこんな風に語っていたものだ。
「あの試合の8回ぐらいからですかね、自分の中で感じるものがあった。押し込む力とか、体重の移動とか。この感覚だ、って」
それから田中が「怪物」と呼ばれるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
センバツ大会目前で駒大苫小牧を襲った激震。
夏の甲子園連覇を達成した直後、部長の暴力事件が明るみに出て、駒大苫小牧は一転、バッシングにさらされていた。監督の香田誉士史は「こういう中でリーダーシップを発揮できるのはあいつしかいない」と、田中を主将に指名。そしてまずは秋の全道大会を制し、続く明治神宮大会も制した。田中は期待通り、そんな逆風をも推進力に変え、白星を積み重ねていったのだ。
新チームを結成してから3カ月足らず。だがこのときすでに駒大苫小牧は攻撃力、投手力ともに過去最高のレベルに達していた。
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photograph by Naoya Sanuki