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「監督に向いてないね」王貞治に直言した張本勲、“監督就任”が消えた日…生前に本人が明かしていた“なぜ固辞したか?” 天才の孤独を元同僚は見た
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岡野誠Makoto Okano
photograph byAFLO
posted2026/10/03 11:04
張本勲はなぜプロ野球監督にならなかったのか
名将の隣には名参謀がいる。川上哲治には牧野茂、広岡達朗には森昌彦がいた。
もし自分が監督になっても、コーチはイエスマンしか集まらない。そうすれば、失敗は目に見えていると本能的に悟っていたのではないか。
じつは“もう一度あった”就任可能性
「張本監督」が誕生したとすれば、70年代だろう。日拓が日本ハムに身売りをしなければ、数年後に指揮官に昇格していたはずだ。事実、土橋からヘッド兼打撃コーチを頼まれた際、「いずれ、お前に(監督の座を)渡すつもりだから」と言われていた。そうなれば、同じ選手兼任の南海・野村克也とパ・リーグを盛り上げたのではないか。
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可能性は、もう1回あった。09年発売の著書『イチロー論』の中で、張本は〈今では、監督をやらなくて正解だったと思っている〉と綴っている。裏を返せば、心が揺れた時期もあったようだ。有藤通世監督の後任として、白羽の矢が立った89年オフ、ロッテの重光武雄オーナーは金田正一に相談した。すると、「張本はやらないよ。ワシがやろう」と監督の座を横取りしてしまった。張本はこう振り返っている。
〈後日、その話を聞いた私は金田さんに「私に聞きもしないで」と詰め寄ると、「どうせお前はやらないじゃないか」と言われた。いかにも金田さんらしい。こうして4度の監督要請はすべて実現しなかったが、可能性があったとすれば最後の4回目だったかもしれない〉(21年12月27日号/週刊ベースボール)
「張本監督」はどんな野球をしたか
張本監督なら、どんな野球をしたのか――。
今となっては、すべて夢想である。チームを立て直した日拓ヘッド時代の先進性、落合を見出したロッテ時代の眼力を考えると、名将になる潜在能力を持っていたと思う。
81年の引退後、張本は頑なに監督要請を拒否した。向いてないと感じても、熱烈なオファーを受ければ、普通は心が揺れる。若干の迷いもあったようだが、最終的には自分の意志を貫き通した。この頑固さがあったから、独特の打撃フォームを続け、脇目も振らず野球に打ち込み、前人未到の3085安打を放てたのだろう。
自分の性格を熟知していた彼の中で、「名選手・張本勲」と「名監督・張本勲」は両立し得なかったのである。
〈第1回からつづく〉
※名前、肩書きなどは当時
