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なぜ張本勲はプロ野球監督にならなかったのか? 「息子が死んでしまう」母は心配、「いずれ監督に」本人は前向き発言…ロッテと日本ハムがオファーしていた
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岡野誠Makoto Okano
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2026/10/03 11:03
日本プロ野球の最多安打数「3085本」の記録を持つ張本勲
〈母には私の苦労が痛いほど分かったのだろう。嫁に「絶対に監督をさせてはいけない。勲ちゃんが死んでしまう」と言ったそうだ。私はその母からの言葉を重く受け止めていた〉(21年12月27日号/週刊ベースボール)
2つ目は、強過ぎる責任感である。
〈私自身、監督というのは責任を持って選手を最後まで見るべき立場だと考えていた〉
〈志半ばでユニフォームを脱いでいく選手たちがいる。その選手たちのその後の面倒、就職先まで見てやれるかと考えると、私にはとてもできない。「そこまで考える必要などない」という声が大半だったものの、しかしそれは監督として私が育ててやれなかった責任でもあるかもしれないのだ〉(前掲誌)
「いずれ監督に」発言…なぜ心変わり?
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これは、あくまで後年の話である。実は、引退直後の張本は「いずれ監督になろう」と考えていたフシがある。現役を退いてから2カ月後、「名球会」の総会でハワイ旅行をした際にON、金田正一、稲尾和久とこう語り合っている。
〈六十歳になる前に、金田、王、長島、稲尾、張本監督を実現し、もう一度、球場を沸かし、ファンに野球の妙味、野球道を教えてやろうじゃないか。フロントにも、野球の真髄を叩き込もう〉(82年1月14日号/週刊文春/連載『三千本安打の張本勲がゆく』)
張本にその気はあった。だから、晩年にベンチで総監督のように振る舞ったのだろうし、引退会見で「サイドから野球を見てみたい」と語ったと思われる。
なぜ、張本は心変わりをしたのか。それには、親友である王貞治の存在がある。
〈つづく〉
※名前、肩書きなどは当時
※1 誤字、衍字(えんじ)が複数あったため、該当箇所は修正した

