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「甲子園に届かなかった」明徳義塾の“苦難の時代”を経て…10年以上ぶりに見た名将・馬淵史郎の息子、馬淵烈の“驚きの姿”に感じた父の血
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中村計Kei Nakamura
photograph byTadashi Shirasawa/Kei Nakamura
posted2026/09/23 17:02
明徳義塾高校・馬淵史郎監督(左)と、息子で拓殖大学野球部監督の馬淵烈(右)。選手たちに指示を出す姿がよく似ている
「しゃーないわ。なんでもかんでもうまくいかん」
誰よりも勝利に対する執着心をむき出しにする割に、負けたとなると拍子抜けするほどサバサバしているのが史郎でもあった。
名前の由来は「脇光三」
烈は高校卒業後、史郎の母校でもある拓殖大に進んだ。ちなみに「烈」という名前は拓殖大のキャンパス内にある「烈士 脇光三碑」という碑の「烈士」から1字とっている。拓殖大の1期生だった脇光三は日露戦争の際、ロシア軍内に潜伏し特務機関員、つまりスパイとして活躍した人物である。
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司馬遼太郎の歴史小説はすべて読破するなど、歴史好きな史郎は戦史に精通しており、「私の大先輩ですからね」と脇光三に尊敬の念を抱いているのだ。
10年以上ぶりに見た烈の姿に驚き
烈は大学時代も三塁手としてプレーし、大学卒業後は、社会人チームのシティライト岡山に4季在籍する。現役を退いた後は、2015年12月から拓殖大のコーチとなり、2019年秋に監督に就任した。
高校を卒業してからというもの、烈の姿を見る機会はなかなか訪れなかった。久々に見たのは監督になってからだ。高校3年のときから優に10年以上が経過していた。そして、高校時代とは逆の意味で驚かされた。

