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「甲子園に届かなかった」明徳義塾の“苦難の時代”を経て…10年以上ぶりに見た名将・馬淵史郎の息子、馬淵烈の“驚きの姿”に感じた父の血
posted2026/09/23 17:02
明徳義塾高校・馬淵史郎監督(左)と、息子で拓殖大学野球部監督の馬淵烈(右)。選手たちに指示を出す姿がよく似ている
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中村計Kei Nakamura
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Tadashi Shirasawa/Kei Nakamura
◆◆◆
高校に上がってからも烈は最終的にはレギュラーの座を獲得する。メインはサードだったが、最後の夏は投手陣が総崩れ状態で、急きょ、エース番号をつけた。しかし、決勝で高知中の系列である高知高校に敗れる。中学時代に続いて、またしても県内の最大のライバルであるエンジのユニフォームに行く手を阻まれた。
烈が在籍した3年間は、明徳にとって苦難の時代だった。高校1年夏は甲子園出場を決めたものの、開幕直前に不祥事が発覚し、辞退に追い込まれる。そこから史郎は1年間、監督を離れた。史郎の離脱でチームは一時期、低迷する。史郎が復帰してからも、一度失った勢いは容易に戻らず、結局、烈の代は甲子園に届かなかった。
さぞかし無念だったろうと思ったのだが……
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史郎が監督に就いてからというもの3年間明徳に在籍して、一度も甲子園に行けなかった代は2つしかない。烈は、そのうちの1つの代になった。だが、烈はこう前を向く。
「それまでの明徳って、華やかなイメージしかなかった。甲子園が居場所みたいなね。でも、その陰には、毎年、負けて甲子園に行けないチームがいるというのがわかった。それを知ることができたのは、ものすごくよかったと思うんですよ。勝つのって、当たり前じゃないんで」
史郎は年間の行事予定に組み込まれているかのように甲子園出場を続けていたにもかかわらず、息子が在籍していた3年間は甲子園の土を踏むことができなかった。さぞかし無念だったろうと思ったのだが、そのことについて触れたとき、史郎はあっけらかんと言った。

