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江川卓の初勝利をサポートも「礼を言われた記憶はないなあ」新浦壽夫が見た“江川−小林繁トレード”のすべて「二人とも愚痴は言わず…立派だったよ」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKazuhito Yamada
posted2026/07/31 11:04
騒動の末に入団した江川卓。彼の初勝利をサポートするためにリリーフについた新浦壽夫は、新たな時代の到来をどう見ていたのか
「後楽園球場のライト側にブルペンがあって、先発投手が準備をする。うしろで見ながら『やっぱりいいボールを放るな』と思いました。リリーフに備えて、横で投げ始めたら、江川がピッチングコーチに『新浦さんのピッチングはやめてもらいたい』と言う」
ピッチャーにはそれぞれに投げるタイミングがある。
「俺がバタバタ投げるのが気になったのかな。こっちは気にしないで投げていたんだけど。ピッチャーからすれば、そういうことも勝負というか、喧嘩だから負けるわけにはいかない。そんな気持ちもありましたよ。『俺のほうがいいボールを投げるだろう?』という」
江川の心強い「相棒」がレギュラーに
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新浦が巨人に入団した当時、レギュラーとしてマスクをかぶっていたのが森祇晶、その後釜には吉田孝司が座った。20代の新浦が大先輩たちに何かをリクエストすることは難しかった。
「もう、サイン通りに投げるしかない。『フォークを投げたい』なんて言うことはできなかったですね。打たれたら、キャッチャーの要求通りに投げられないピッチャーの責任という感じでした」
しかし、江川には心強い相棒がいた。1977年のドラフト1位で早稲田大学から入団した山倉和博だ。東京六大学でしのぎを削ったライバルであり、日米大学野球でチームメイトとして戦った仲間でもある。
江川がアメリカ留学していた1978年、プロ1年目の山倉は69試合に出場。1979年には出場試合を97試合に伸ばし、1980年からは正捕手の座を確かなものにする。
「山倉とは相性がよかったんだろうね。江川はいつもノーサインで投げていたけど、山倉は涼しい顔で捕っていました。ストレートとカーブしかないとはいえ、なかなかできることじゃない。同い年だから、あれこれ言わなくてもわかり合えたんでしょうね」
ストレートとカーブをテンポよく投げ込む江川が本領を発揮するのは1980年以降だ。16勝を挙げ、それから引退するまで毎年二けた勝利を続けた(20勝、19勝、16勝、15勝、11勝、16勝、13勝)。
1979年の秋、長嶋監督がチームを立て直すために敢行したのが“地獄の伊東キャンプ”だった。だが、そこに新浦の姿はなかった。

