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「自分の中で、ライバルは江川卓と決めました」非エリート・西本聖の“永遠のライバル”が入団した日…「僕もトレード候補だった、と聞いた」

posted2026/08/01 11:00

 
「自分の中で、ライバルは江川卓と決めました」非エリート・西本聖の“永遠のライバル”が入団した日…「僕もトレード候補だった、と聞いた」<Number Web> photograph by Bungeishunju(2)

ジャイアンツの2大エースとして一時代を築いた江川卓(左)と西本聖(右)。「永遠のライバル」関係の始まりを西本が語った

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元永知宏

元永知宏Tomohiro Motonaga

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Bungeishunju(2)

「江川トレード事件」、「西武ライオンズ誕生」、「箕島高春夏連覇」、「江夏の21球」……このすべてが起きたのが1979年である。今にして思えば、日本野球界の新たな勢力図の兆し、そしてスポーツ文化の変容の萌芽がこの年に見えていたとも言える。1980年『Number』創刊の前年、日本野球界の地殻変動を関係者への取材で振り返る大型連載! 江川の入団で生まれた永遠のライバル関係。その真実を当事者が語る!〈連載『日本野球1979』第5回「江川トレード編」/つづきを読む

 1925(大正14)年春に初めて全国優勝を成し遂げた松山商業(愛媛)は、1932(昭和7)年春にも日本一になり、1935年には夏の甲子園を初めて制した。

 第2次世界大戦を挟んで、1950年夏に戦後初の全国優勝(松山東との統合チーム)を飾り、1953年には3度目の夏の頂点にのぼりつめた。1966年夏には準優勝している。

 そして日本中の高校野球ファンに松山商業の名前を強く印象づけたのは、1969年夏の春夏通算6度目の日本一だった。三沢(青森)との決勝戦は延長18回までもつれ込んだが、両校とも譲らず、0対0で引き分けとなった。翌日に行われた再試合で、松山商業は三沢のエース・太田幸司を打ち崩し、深紅の優勝旗を手にした。

自分はみんなの期待を裏切ってしまった

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 その時のファーストが西本聖の兄(四男)の正夫、1966年に決勝まで勝ち上がったチームのエースは兄(三男)の明和(元広島東洋カープ)だった。そのため、西本は高校入学前から熱狂的なファンの期待を一身に背負った。彼らが望んだのは日本一になることだった。しかし、西本は3年間で一度も甲子園に出ることができなかった。

「高校時代に多くの方にものすごく応援してもらったのですが、3年間で一度も甲子園に行けなかった。自分の中には『みんなの期待を裏切った』という思いがあって、松山に帰ることに対して気が引けますね、いまだに」(西本)

 江川卓の出身校である作新学院(栃木)も、甲子園での実績では引けをとらない。

 1958年夏の甲子園でベスト4。1962年には史上初の春夏連覇を達成している。ちなみにその年の春のセンバツ準決勝では、松山商業を延長16回の激闘の末に下した。

【次ページ】 怪物・江川を倒せ

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