- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「ボールを蹴った瞬間、ヤバい」”W杯で初めてPKを外した日本人”が明かす南アW杯PK失敗の真相「俺一人のせいで負けた。その責任ばかり感じて」
posted2026/06/29 11:02
2010年南アフリカW杯パラグアイ戦のPK戦で3人目のキッカーとしてペナルティスポットに向かう駒野友一。“W杯で初めてPKを外した日本人”が明かした真相とは?
text by

松本宣昭Yoshiaki Matsumoto
photograph by
Naoki Nakanishi/JMPA
これまで有料公開していた記事を特別に無料公開します。(初出:Number1136号/2026年1月22日発売)<全2回の1回目/2回目へ>
W杯でPK戦の採用を提案した“1通の手紙”
ヨセフ・ダガン。
このイスラエル人がいなければ、日本の心優しきサイドバックが、あれほど深く傷を負うことはなかったかもしれない。
1968年秋のことである。イスラエルとブルガリアが争ったメキシコ五輪準々決勝は、1-1のタイスコアのまま決着つかず、延長戦終了のホイッスルが鳴らされた。
ADVERTISEMENT
現在であれば、PK戦が始まるところだが、両チームのキャプテンは主審の待つピッチ中央に呼ばれた。そこにはポットの中に入った2通の封筒が用意されていた。両者が1通ずつ取り出す。中身を確認したイスラエルの主将モルディチャイ・シュピーグラーは、力なく肩を落とした。120分間の死闘も虚しく、彼のチームは「抽選」によって準決勝進出を逃した。
同国サッカー協会の幹部だったダガンは、この光景を見て頭を抱えた。サッカーの決着は、サッカーで決めるべき。なぜボールすら使わない方法で、夢が断たれてしまうのか。すぐさま彼は、FIFA会長宛てに手紙を書いた。すでに欧州や南米の一部で実施されていたPK戦の採用を提案する内容だった。
この手紙が、歴史を動かした。サッカーのルールを決める世界唯一の機関・国際サッカー評議会は、'70年6月にPK戦の正式採用を決定。それまで決着がつかない場合は再試合を行っていたW杯でも、'78年アルゼンチン大会から採用されることになった。
W杯で初めてPKを外した日本人
ダガンが筆を執ってから42年後、日本代表は初めてW杯でPK戦に臨んだ。
2010年6月29日。南アフリカ北部、プレトリアにあるロフタス・バースフェルド競技場に設けられた狭い取材エリアには、試合終了からパラグアイ人記者の興奮と日本人記者の落胆が充満していた。細くて短い通路に選手たちが姿を現すと、すかさず音声レコーダーを握る無数の腕が柵の向こうへ伸びた。
目の前にあったベスト8への切符を寸前で取り逃したにもかかわらず、日本の選手たちは意外なほど冷静だった。大会前の不振により、猛烈な批判に晒されながらも16強までたどり着いた安堵感もあったのだろう。遠藤保仁はいつものように淡々とゲーム展開を振り返り、中澤佑二は「帰ってカレーを食べましょう」と報道陣を笑わせた。
ただし、彼だけは様子が違った。すでに多くの選手がチームバスに乗り込んだ頃、「W杯で初めてPKを外した日本人」がミックスゾーンにやって来た。あのとき、筆者には訊いてみたい質問があった。
〈なぜ、左上を狙ったのですか?〉
ゴールマウスの大きさは幅7.32m、高さ2.44m。その真ん中に、2m近い大男が立ち塞がる。そんな相手GKの手から逃れるために、最も成功の確率が高いシュートコースは左右の「上隅」だ。ただし、リスクもある。少しでもインパクトを失敗すれば、ボールは枠の外へと飛んで行く。
W杯という極限の舞台で、なぜ勇気と度胸が必要なあのコースに蹴る決断に至ったのか。その心の内を知りたかった。

