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「バカ野郎、俺が勝っても何ともならん」ダイエーは負けても負けても「これでいいんだ」!? 剛腕でチーム再建へ、根本陸夫監督の“深謀遠慮”とは 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2026/06/25 11:04

「バカ野郎、俺が勝っても何ともならん」ダイエーは負けても負けても「これでいいんだ」!? 剛腕でチーム再建へ、根本陸夫監督の“深謀遠慮”とは<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

自分が監督なのにチームが好調だと困惑していたという根本。その裏でフロントとしての剛腕で好選手を続々と獲得する

 王の監督就任が決まった1994年オフには、西武で2桁勝利を7度、1993年にはパ・リーグMVPを獲得した工藤公康、西武のチームリーダーとして長く活躍した当時38歳の内野手・石毛宏典がともにFA宣言したことを受け、ダブル獲得に乗り出した。工藤は1981年ドラフト6位指名。その年の夏の甲子園でノーヒットノーランも達成した左腕は社会人の熊谷組へ進むことを表明していたが、アマ球界にも顔が利く根本の“剛腕ぶり”が発揮され、工藤は翻意。それこそ、根本がプロ入りさせたような選手だった。

 秋山と工藤、チームにおける投打のリーダーとなれる2人を引っ張って来ると、一方でドラフト戦略でも、他球団がうらやむばかりに、好素材の選手を次々に獲得していく。

小久保、城島、井口、松中、柴原……

 当時、バルセロナ五輪日本代表メンバーにただ一人の大学生として選出された青山学院大の内野手・小久保裕紀を、巨人などのライバルを制し、ドラフト逆指名枠により1993年2位で指名。駒大進学を打ち出していた別府大付属高の大型捕手・城島健司は1994年1位で強行指名。1996年も逆指名枠でアトランタ五輪日本代表、青山学院大の内野手・井口資仁を1位、同2位で同じくアトランタ五輪代表で、新日鉄君津のスラッガー・松中信彦、同3位には九州共立大の外野手・柴原洋を獲得。後にダイエーホークスとして初優勝、日本一に輝いた1999年に主力選手として活躍するメンバーたちだ。

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 王は、当時の積極的な補強方針を、こう振り返っている。

「チームは弱かったけど、小久保、城島、松中、井口、柴原とかね。東京の中央でガンガンやってきたような連中を、福岡のチームに連れて来るのも大変なことなんですよ。これはチームの熱だけじゃダメ。資金のことももちろん、スカウトのすごい努力もあっただろうしね。ジャイアンツに比べたら、何倍もの努力が必要だっていうわけです。そういう点で、ジャイアンツ時代に経験していなかった苦労というのかな、こういうこともあるんだということを経験させてもらったというのは、すごくよかったよね」

 根本の辣腕によって、王ダイエーの土台固めが着々と進められていった。

【次ページ】 世界の王が、ハワイまで視察に

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