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センバツ21世紀枠チームが“25連敗”…それでも「そこにある意義」は? 長崎西「野球の偏差値は40切っている」高知農「うちでいいの?」からの甲子園
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田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2026/03/22 11:03
21世紀枠で選出され敗れた高知農と長崎西
この財産を得るため、19年に監督となった下坂が選んだ道が「厳しい野球」だった。
平日は日が暮れてからもバットを振らせ、ボールを追わせた。野球部の過酷な日常は部員たちの心身を摩耗させ、次第にグラウンドから遠ざけていく。年々、部員数は減り、21年には新入部員がひとりも現れなかった。
夏の大会が終わり、3年生が抜けるとチームには3人しか部員が残らなかった。単独チームで公式戦に出られず、連合チームで戦う現実を突きつけられる。
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ここで下坂は、指導方針を180度、転換させた。厳しい野球からの脱却である。
「怖さはありませんでした。もう、変えるしかなかったので」
一方通行だった監督が、選手に歩み寄る。練習時間は短くなり、ミスをしても頭ごなしに叱責することもなくなった。チームは自然と明るくなっていった。
変革を遂げたチームの空気感に魅了され、高知農への進学を決めたのが山下である。
「中学3年の秋に高知農業の試合を見て。その時の試合前ノックで、下坂先生の前向きな声掛けに惹かれました」
その山下と少年野球でチームメートだった、2年生キャッチャーの山本滉壬朗も同じ動機で高知農に入学したひとりだ。
中学で日本一の選手が…ナゼ高知農に?
山本は高知中のレギュラーとして、チームの日本一に貢献した選手だった。本来ならば、高校も強豪で知られる系列の高知高校に進むはずだったが、最終決断を躊躇した。
理由は「厳しさについていけるか不安だった」からだと、山本が明かす。
「中学では、プレーでミスが出るとすぐに代えられるくらい競争が激しくて。高知高校は県外からも人が集まってくるので、そういう怖さがありました。高知農業には山下さんがおって、下坂先生も指導してくれるということで、この学校に行くことを決めました」

