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「一方的な大流血…地獄絵図」ウルフアロン新日本デビュー“45年前の悲劇”…大物ルーキー・谷津嘉章の初陣は、なぜ「史上最悪のデビュー戦」になったのか?
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堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2026/01/10 11:00
国内デビュー戦でスタン・ハンセンにドロップキックを決める谷津嘉章
「モスクワではメダル確実」と言われたが…
谷津嘉章のアマチュアレスリングの実績は「日本アマレス史上最強のヘビー級」と呼ぶにふさわしいものだ。高校からめきめきと頭角を現し、高校3年時に国体で優勝。日本大学に進学すると全日本学生選手権、全日本選手権で優勝を重ね、76年モントリオール五輪に出場。この時は8位に終わったが、まだ20歳の大学3年生。その後も国内無敵の快進撃を続け、国際大会でも結果を出し「モスクワではメダル確実」と言われた。
しかしモスクワ五輪開幕を2カ月後に控えた80年5月24日、前年のソ連によるアフガニスタン侵攻への抗議として、日本はアメリカ、西ドイツなど50カ国あまりの西側諸国とともに国家として参加ボイコットを決定。谷津の2度目の五輪出場は夢と消え、“幻のメダリスト”と呼ばれるようになってしまった。谷津は当時の思いをこう振り返る。
「俺の人生は本当にタイミングが悪い。日本がオリンピックをボイコットしたのは後にも先にもあの時だけ、そこにぶつかったわけだからね。それまでメダルを獲るためにあらゆることを犠牲にしてきから、すべてが投げやりになったな」
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この時、谷津は24歳。同じくモスクワ五輪ボイコットで涙を飲み、のちにロス五輪で金メダルを獲って国民栄誉賞を受賞する柔道の山下泰裕とは1歳違いであり、谷津にもロス五輪を目指す選択肢はあったがそれは選ばなかった。
「重量級アスリートは何かと金がかかる。これ以上いろんな人の世話になるわけにいかないと思ったんだ。落ち込んでいてもしょうがない、何か違うことをやろうと頭を切り替えた」
「契約金は1500万円」破格の金額だった
その時、谷津の頭に思い浮かんだのが、かねてから誘いを受けていた新日本プロレスだった。
「大学3年時に米国サンディエゴで世界選手権のための合宿していた時、たまたま近くのホテルに泊まっていた猪木さんを関係者に紹介されて、『プロレスに興味があったら、やってみないか?』って言われたわけよ。その時は次のモスクワ五輪を目指してたんで口を濁して終わったんだけど、別れ際に猪木さんから『栄養費にでもしてくれよ』って、小遣いを3000ドルもらった。1ドル240円ぐらいの時代だよ? 今なら軽く100万円以上の価値かな。その時、プロレスってすげえなと思った記憶が残ってたんだ」
谷津は関係者を通じて新日本と連絡を取ると交渉はとんとん拍子で進み新日本入団が決まった。契約金は1500万円。当時としては破格の金額だった。
「新日本に多額の契約金提示されて入ったのは俺ぐらいじゃないかな。当時はプロレスブームで新日本も勢いがあったしね」
俺も男なら一花咲かせてやろう。谷津はそんな思いでプロ転向をはたしたが、入団後思わぬ現実に直面してしまう。
「俺はプロレスをロクに見たことがなかったんで、ある程度の演出があったとしてもガチだと思ってたんだよ。プロレスが実際はどんなものなのか、入る前も入ってからも誰も教えてくれなかったんだ」
