NumberWeb TopicsBACK NUMBER
「なぜ“100年に1人の天才”が無名校に?」全国高校駅伝27年前の奇跡…「1日60km走ったことも」“寄せ集め集団”だった佐久長聖が駅伝の名門になるまで
posted2025/12/21 11:01
現在では高校駅伝界の超名門となった長野・佐久長聖。だが、その黎明期はスキー部や卓球部からの寄せ集めと言っていいチームだったという
text by

NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph by
取材対象者提供
「何を言っているんだろう、この人――」
1995年、中学3年生だった松崎雄介は、自身を勧誘に訪れた男の話を聞いて、そう思った。両角速という聞いたこともない指導者が「5年以内に都大路に出場することを目指しています」と語っていたのだ。
なぜ、自分に? それもそのはずで、松崎は短距離種目の長野県大会で優勝したスプリンターだったからだ。
ADVERTISEMENT
「田舎の中学の陸上部ですから、人数合わせで駅伝を走った経験はありました。実は当時、両角先生はウチの長距離エースを勧誘しに来ていて、断られたらしいんです(笑)」
「寄せ集め」選手と指導者の熱が名門の礎を築いた
当時の佐久長聖は中高一貫校になって校名が変わったばかりの新興校だった。1996年4月、松崎は同校駅伝部の1期生となったが、入部した6人の部員のうち半数は卓球部、スキー部、そして短距離走者の松崎と、そもそも長距離走とは縁遠いメンツだった。
最初の練習は「女子部員と一緒に30分ジョグ」という牧歌的なものだった。練習環境も恵まれず、近隣には陸上競技用のトラックもなかった。そんな状況で両角監督が1期生に求めたのは「質」ではなく「量」だった。
「最低でも60分ジョグを毎日。ポイント練習では1万2000mとか1万6000mのペース走とかですね。とにかく距離を踏んで、完休の日なんてない。毎日毎日、ひたすら走り込みです(笑)」と松崎は当時を振り返る。
転機となったのは1年生の夏だった。隣県の山梨県でインターハイが開催されていたが、帰省中の6人は誰も見に行かなかった。その結果「お前たちはどこを目指してやっているんだ」と両角監督に叱責された。この出来事が松崎たちの意識を変えた。
「もともと両角監督からは『人間的な成長なくして、競技の成長なし』とは言われていたんです」と“スキー部”小嶋卓也は語る。その後、松崎は秋に5000mで14分台を記録。長野県では1年生で初めての快挙だった。
秋の県駅伝で4位と健闘すると、翌年、2年生になった松崎たちのもとに、日本陸上史に残る"100年に1人"の天才が加わることになる。結果的にそれは、全国への道を加速度的に拓いていくことになるのだが――その後の“奇跡の軌跡”は本編で描かれている。
◆
この文章の本編は、以下のリンクからお読みいただけます。
