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「なぜ、戦力外になったのか。自分なりの理由を記せ」戦力外通告でヤクルト移籍、野村克也監督の衝撃…連日連夜のミーティングで驚いた“その内容”
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渡辺久信Hisanobu Watanabe
photograph byNaoya Sanuki
posted2025/12/16 11:01
西武から戦力外通告を受けた渡辺久信は1998年、野村克也率いるヤクルトでプレーした
学んだ“ノムラの教え”
ほかには、「ピッチャーはストレート以外に、バッティングカウントでストライクを取れる球種を2つ以上覚えなさい」という教えもあった。投手不利(打者有利)なカウントでも打ち取れる球種がなければ、一軍でなかなか勝つことはできない。「野村再生工場」と呼ばれることもあったが、ピッチャーにはシュートの習得を必須項目としていた。
さらには、「右バッターのインコースはボール球でいい」とも力説していた。ストライクを取りにいってはいけない。ストライクを欲しがるとどうしても甘くなる。インコースは長打と凡打が同居したゾーンで、その差は紙一重。インコースのボール球を生かすためにも、野村さんが「原点」と表現するアウトコース低めのコントロールが重要になる。
野村さんがすごいのは、Bクラスの常連だったヤクルトに種を撒き、水をやり、日本一を狙えるチームにまで押し上げたことだ。就任1年目の1990年は5位、そこから3位、1位、1位と、就任9年間で4度のリーグ制覇を成し遂げた。
「野村監督にあんなこと言うのは渡辺監督だけ」
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野村さんの戦いの基本は「弱者の戦法」にある。言い換えれば、「相手が嫌がる野球をやる」。正攻法でぶつかっても勝てないので、相手の弱点を突く。そのためにもチームの武器を磨き、戦えるための引き出しを少しずつ増やしていく。2008年に私が西武を率いたときには、チームが若く、実績のある選手が少なかったこともあり、「がっぷり四つで組んでも勝てない」と考えていた。その中で、失敗を恐れずに積極的にチャレンジしていく野球を貫き、日本一まで駆け上がることができた。
野村さんとは2008年からの2年間、楽天と西武の監督として戦った思い出もある。試合前のメンバー交換時に話をするのが、何より楽しく、嬉しかった。あるときの試合では、「監督、昨日まさかあのカウントでエンドランを仕掛けるとは思わなかったですよ」と言うと、独特の低い声で「おぅ、ナベ、そうだろう」とニヤリとしていた。野村さんを“いじる”と書くと、大変失礼な話だが、どんな話をすると喜ぶかはよくわかっていた。審判からは、「野村監督にあんなこと言うのは渡辺監督だけですよ」と言われたこともある。
〈つづく〉
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