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大谷翔平「大坂君には負けたと思いました」大谷のライバルだった“青森の天才”とは何者か? “怪物中学生”のその後…運命を変えた「12歳の選択」 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byTomoya Osako

posted2025/10/15 11:20

大谷翔平「大坂君には負けたと思いました」大谷のライバルだった“青森の天才”とは何者か? “怪物中学生”のその後…運命を変えた「12歳の選択」<Number Web> photograph by Tomoya Osako

「大谷が衝撃を受けた怪物」大坂智哉の中学野球部時代

「たまたまです。いちばんキャッチャー寄りに立って、バットを短く持って、2球目か3球目だと思うんですけど、真っ直ぐだけを待っていました。ちょっと浮いてくれないかなと思いながら。そうしたら、ちょっとだけ浮いてきたので、当て打ちしたんです。ポンって弾いただけで、振り切ってない。そうしたら、左中間を抜けていったんです」

 だが、捉えてもなお大谷のすごさが残った。

「その頃、子どもの硬式野球の世界はカーボン製バットが主流でした。僕はウィルソン製のカーボンバットを使っていたのですが、次の打席に入るときに芯のあたりを触っていたら、ちょっと平べったくなっていたんです。まん丸ではなく、楕円でした。それくらい大谷のボールに勢いがあったということだと思います。まだ新品で、4試合か5試合ぐらいしか使っていないバットだったんですけど」

17奪三振を目撃した大坂「なぜ驚かなかったのか」

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 リトルリーグの試合会場はホームベースから61メートルの距離のところに外野フェンスを設ける。次に試合を控えていた大坂は、フェンスの向こう側でアップをしながら、この快投を遠目に眺めていた。

 ところが、大坂はさほど驚いてもいなかったという。

「青森にひとり、すごい速いピッチャーがいたんです。僕は彼が日本一だと思っていましたから」

 大坂が言う「ひとり」とは、青森山田リトルシニアの本間のことだ。本間は大坂を「バケモン」と表現したが、大坂にとっての本間もそれに近い感覚があった。本間はひょろりとしていた大谷よりはるかに肉付きがよく、しかもさらに大きかったのだ。

 本間のストレートは大谷と比べても負けていなかった。登板すれば大抵、10個以上の三振を積み上げる。大坂はその本間からホームランを打っていた。その自信が大坂の小さな世界を支えていた。

◆◆◆

(中略)

怪物少年だった大坂「12歳の選択」

 リトルの監督を信頼していた大坂は地元の小中野中学の軟式野球部に入部し、その傍ら、長者レッドソックスで小学生の指導を手伝いつつ自分も練習させてもらうという、やや変則的な道を選んだ。

 大坂にとっては、このときの選択が一つの岐路になった。

 大坂はこの後、地元の小中野中を経て、県内の強豪校、青森山田に進むことになるのだが、中1の夏以降、東北球界で「大坂」の名前が聞かれることはほとんどなかった。

<前編から続く>

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大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」

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