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“野人”中西学に起きた異変「脂肪がなくなり…」新日本プロレスの“格闘技路線”で運命が変わったウラ事情「オメーはそれでいいや」伝説の猪木問答
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byL)AFLO、R)Keiji Ishikawa
posted2025/10/17 11:02
“野人”として人気を集め、2020年に現役を引退した中西学さん
“ヒクソン迎撃”中西に立った白羽の矢
中西は1996年10月、約1年間のアメリカ修行を終えて帰国。それに合わせて「クロサワ9番勝負」と銘打たれたシングルでのトップ選手との連戦も組まれ、長州力、リック・フレアーに勝利するという大金星を挙げる。翌97年には小島聡とのコンビでIWGPタッグ王座を獲得するなど、新しいタイプの新日本エースへの道を着実に歩んでいると思われた。しかし、当時のマット界の状況が中西をプロレスの“本道”から外れた道を歩ませることとなる。
97年10月11日に東京ドームで行われた『PRIDE.1』で髙田延彦がヒクソン・グレイシーに完敗を喫すると、グレイシーや総合格闘技の脅威がプロレス界にも及ぶようになり、それを打破するために新日本はヒクソンの招聘を水面下で画策。その際、ヒクソン迎撃の白羽の矢が立ったのが中西学だった。
――中西さんがアメリカから帰国後、90年代末には「さあ、これから第三世代の時代だ」という気運が高まり始めたタイミングで、総合格闘技の波がプロレス界にも押し寄せてきましたよね。その頃、中西さんとヒクソン・グレイシーが闘う話もあったとうかがっています。
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中西 長州さんから「いつでもできるように準備しておけよ」とは言われてましたけど、それでなにをしたらええんやっていう(笑)。
「やれって言われたらやるしかない(笑)」
――急に総合格闘技ルールでヒクソンと闘えと言われても、当時はいったいどんな準備をしたらいいのかわからなかったわけですね。
中西 でも、なんかやらなしゃあないので、アマチュア時代のようにとにかく走ってロープ登りをして。たまに大学にも行ってレスリングの練習もして。レスリングをやるといい汗をかくし、息も上がりますから。要するに「息上げの練習をしろ」っていうことを長州さんは言ってましたね。
――“競技用”の身体に作り直せ、ということですね。それまでWCWに修行に行ったり、プロレスラーとしてトップに立つための練習を続けてきたのが、いきなり総合格闘技の試合に出るかもしれないとなった時、どんな思いでしたか?
中西 そりゃ、「やれ」って言われたらやるしかないですからね(笑)。
――「よーし、やってやるぞ!」という気持ちよりも、会社の方針なら仕方がない、という。
中西 自分はプロレスが好きでしたからね。とにかくプロレスをしっかりとやっていきたかったんですけど、そうも言ってられへん状況になってきて。アマチュアレスリングをやっていたから、そういう試合に出ていくことが期待されるのもありがたいことなんですけど、自分の中では王道であるプロレスをしっかりやらなあかんっていうのもありましたんで。

