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“野人”中西学に起きた異変「脂肪がなくなり…」新日本プロレスの“格闘技路線”で運命が変わったウラ事情「オメーはそれでいいや」伝説の猪木問答
posted2025/10/17 11:02
“野人”として人気を集め、2020年に現役を引退した中西学さん
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
L)AFLO、R)Keiji Ishikawa
バルセロナオリンピック・レスリングフリースタイル日本代表として鳴り物入りで新日本プロレスに入団した中西学は、デビューも破格だった。入団からわずか2カ月後、新日本の「SGタッグリーグ戦」に藤波辰爾のパートナーに抜擢されて出場。いきなりメインイベンタークラスと総当たりで対戦した。
その後は、同世代の若手たちともしのぎを削り、95年3月には若手選手の登竜門「ヤングライオン杯」で優勝。同年7月にはスターへの片道切符と言われた海外遠征に出発する。行き先はなんと、当時WWEと並ぶ規模と勢いを誇っていたアメリカのメジャー団体WCW。
当時、新日本とWCWは協力関係にあり、中西は「世界に通用するレスラーになれ」という意味を込めて、“世界のクロサワ”と呼ばれた映画監督・黒澤明の名を拝借した「クロサワ」のリングネームでWCWに送り込まれた。新日本がいかに中西に期待していたかがわかる。
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◆◆◆
デビュー4年目でのアメリカ挑戦
――中西さんはデビュー4年目でアメリカのメジャー団体WCWで修行するチャンスを与えられましたよね。
中西 いま思えばチャンスやったんやと思いますけど、それを自分がモノにできなかった。正直、アメリカで何をやったらいいのか、それが自分に合っているのか、何もわからなかったんですよ。でも、とりあえず食っていかなあかんし、試合で使ってもらえなかったら日本に帰されるし、それで帰ったらなんのためにアメリカに来たかもわからんし。実際、試合で干されたりもしてたんでね。ただ、トレーニングだけはしっかりとやってましたよ。
――アメリカのプロレスは日本と違って難しい部分がありましたか?
中西 これは自分自身の問題で、自分が何を求められてるのかがわからなかったんですよ。いま考えると、自分がもっと嫌われることでお客さんから憎悪を買って、ヒールとして惹きつければ良かったのかもしれないけど、ちょっと中途半端でしたね。
――いま振り返って考えると、そういう方法論をとればもっとWCWでも活躍できたんじゃないか、と。
中西 あとからいろんな人に言われて気づいたんですけど、当時の自分はわかってなかったです(笑)。頭の中では「日本に帰ってからが勝負や」というのもあったんですけど、せっかくアメリカに行かせてもらったんやから、もっと欲を出していかなあかんかったですね。

