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「競輪はギャンブル…良い印象なかった」自転車大好き少年が“賞金30億円”を稼ぐまで…神山雄一郎が“天才”と呼ばれた頃「中2で15時間280キロ走破」
text by

杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byKiichi Matsumoto
posted2025/08/25 11:00
今春から日本競輪選手養成所の所長に就任した神山雄一郎(57歳)。競輪の世界に足を踏み入れる前の“原点”を明かした(写真/本人提供)
北関東の山岳ライドで鍛えた足は、自転車競技で存分に生かされた。中学校3年生の頃には、草レースの全国大会で優勝するレベルになっていた。一方、道場で竹刀を振っても県内3位の実力を持ち、高校選びは悩んだ。剣道の強豪校に進むのも選択肢の一つ。それでも、アスリートとしての将来性を考えると、より可能性を感じたのは自転車。当時、ぼんやりと描いていた目標は、世界最高峰のロードレース『ツール・ド・フランス』に出場すること。競輪のことは、ほとんど知らなかったという。
「40年以上前ですけど、僕の中の競輪のイメージは閉鎖された社会の中でひっそりやっている感じでした。公営ギャンブル(公営競技)という響きに、あまり良い印象を持っていなかったんです」
ただ、人生はきっかけ一つで変わっていくもの。本格的に自転車競技に打ち込むために入学した作新学院高校の練習場所は宇都宮競輪場。部活全体で力を入れていたのも、ロードレースより競輪に近いトラックレースである。そして、競輪の印象を大きく変えたのは高校2年生の冬だった。1985年の12月30日、父親に誘われ、立川競輪場で初めてオッズの付くレースを観戦した。競輪の年間チャンピオンを決める、第1回『KEIRINグランプリ』は忘れもしない。一発勝負のビッグレースに漂う緊張感は、17歳の無垢な高校生でも肌で感じ取ることができた。異様な熱気に包まれる会場の雰囲気に圧倒され、スポットライトを一身に浴びながら入場してくる9人の選手たちに目を奪われた。
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「演出も派手で、華やかさに驚きました。自分が想像していた世界とまったく違ったので。(世界選手権個人スプリント10連覇の)中野浩一さんが優勝したのですが、走りでお客さんたちを熱狂させ、大きな賞金(当時の優勝賞金は1000万円)を稼いでいるのかと。競輪って、すごい。初めていいなと思いました」
日本一の高校生が悩んだ進路
観客を沸かせる競輪の世界に興味を抱きつつも、ロードレースへの思いはまだ捨て切れていなかった。高校3年生の時期には1988年のソウル五輪を目指す選択肢に加え、自転車大国のベルギーに留学する進路も考えた。ツール・ド・フランスへの道を探ろうとしていたのだ。すでに高校日本一(4000m個人追抜競走)の称号を得ており、自信もあった。1986年5月、全日本プロ選手権に高校生でエントリーしても、負ける気はしなかった。日本トップクラスの競輪選手たちが、顔をそろえていたのも承知の上である。
「自転車競技のタイムトライアル(1000m)であれば、勝てると思っていたのですが、競輪選手たちにまったく太刀打ちできなくて……。とくに(史上2人目のグランドスラムを達成した)瀧澤正光さんの強さには圧倒されました。高校ナンバーワンになっても上には上がいるんだな、と。競輪の世界に挑戦しようと思ったのは、このときでした。こんな強い人たちに勝ちたい、『打倒・瀧澤』という気持ちが芽生えたんです」


