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「1年生の4番さえ抑えればいい」甲子園3連覇がかかった池田高校の“大きな誤算”…PL学園・清原和博を封じたエースが悔やんだ「打者・桑田真澄への油断」
text by

城島充Mitsuru Jojima
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/22 11:00
池田高校のエース・水野雄仁からホームランを放つPL学園1年生の桑田真澄
春の選抜を自責点0という圧巻の内容で制した水野の武器は、140km台のストレートと、鋭く曲がるスライダーだった。右打者の胸元にストレートを投げこんだあと、外にスライダーを散らすと、対応できる打者はほとんどいなかった。実際、清原和博からはこの日、スライダーを決め球に4打席連続三振を奪っている。
だが、もう一人の1年生に対し、水野は勝負を急いだ。
ストライクとファウルで2ナッシングと追い込んだ後の3球目。“阿波の金太郎”の異名をとった豪腕が投じたストレートは、狙った内側より少し真ん中にはいった。
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「もっと集中して投げればよかった」と水野が悔やむのは、4月1日生まれで「最年少の高校球児」と再三アナウンスされた15歳のバットから弾かれた打球が、レフトスタンド中段に吸い込まれた後である。
入部当初の桑田「打者としてはそれほど期待してなかった」
'83年の春、PL学園野球部に入部した1年生27人のなかに桑田真澄はいた。信じられないほど遠くへ打球を飛ばす清原や、192cmの長身から角度のあるストレートを投げ込む田口権一らに比べると、体の小さな桑田は目立たない存在だった。淡々と練習をこなす寡黙な少年が、中村順司監督の目をひいたのは遠投をさせたときだ。
「他の選手は距離を伸ばそうと、山なりのボールを投げるんですが、桑田は低い弾道で80mほど投げたんです。上級生が『もっと高く投げろ』と言っても『僕、ピッチャーなんで』と言って低い弾道のボールを投げ続けた。このときから、投手として育てることを決めました」
だが、夏の大阪大会を前にした練習試合で、桑田は打ち込まれた。肩の強さを買われて外野を守ることもあったが、中村は「このころは、打者としての桑田にはそれほど期待していなかった」と振り返る。
「バットを押すのではなく、下半身を土台に体の回転で打つ。その形はできていましたが、彼を清原や田口とともにベンチ入りさせたのは、あくまで投手としてチームを救えるのではないかと思ったからです」
