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「将来、楽しみかもわからんね」20年前、釜本邦茂が名指しで褒めた“ある選手”とは?“天才少年カマモト”が史上最高のストライカーになれた理由
text by

藤島大Dai Fujishima
photograph byJ.LEAGUE
posted2025/08/13 11:02
1994年、ガンバ大阪を率いたころの釜本邦茂(当時50歳)
もうひとつ、山城高校には重厚な布陣が敷かれていた。サッカーは素人ながら名部長とうたわれた村山康裕(故人)が、厳格かつ繊細な人間教育を授けたのだ。
「普通、釜本の力があれば誰も文句をつけない。でも村山先生は、天狗の鼻が伸びかける時、すかさずにね。ありがたいですね。彼にとってもよかったと思います」(二村)
進学先の早稲田もそうだった。
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稀代の伯楽、工藤孝一監督(故人)の自主性と勝負魂を両立させた指導とめぐりあえた。甘えを許さず、なお個性は殺さない。戦前ベルリン五輪の英雄、ストライカーの先駆でもある川本泰三(故人)らOBも、しきりに助言を与えた。
記者経験からスポーツ全般に通ずる賀川浩の視点がおもしろい。
「その人間と刺し違える。全身全霊を傾けて、こいつらを育ててやろう。そうした気風いうのは学校に強い。いまラグビーと野球の一部には残ってますね。Jリーグにはない。プロは情をかけたら首斬れないんやから。ところが釜本はそのつどの監督や先輩によって仕込まれた。日本代表の選手は最高の芸術家にして職人であるべきという観点に立てば、個人教育は当然やね。システムばっかりやっとっても生まれないわけやから」
本人も認める。
「いまの選手も年寄りと付き合わなあかん。ちらっと、いいこと言うてくれるからね。もうプロやから先輩がいないでしょう。みんな淡々としとるわな。だから、なかなか伸びてこない」
「結局、釜本ですよ」
戦術より個人技、クラブでなく学校運動部、そう受け取っては短絡だ。ただ、いかにして釜本邦茂が誕生しえたのかを考えるのなら、アマチュア時代の日本サッカーも過小評価されるべきではない。
「サッカーはプロとアマが同じ土俵にのぼる。僕は思った。プロを上回る技術と精神を身につけさえしたら戦えるんやと。若い人はプロは強いと思うかもわからん。でも実際にはピンからキリまでおるんやから」
この部分、釜本インタビューで、いちばん語気が強まった。
メキシコ五輪銅メダルのチームと現代表が対戦したら。天下の愚問である。なのにジャーナリズムの大先輩に聞いてしまった。
「単純に比べればフィジカルが違うわね。あのころの代表のゴールキーパー、身長1m75cmやからね。もうJリーグにはいないサイズでしょう。結局、釜本ですよ。ベルリン五輪の川本泰三さんもそうやけど、いまも通用するかといわれたら、やっぱり前の選手。キーパーをかいくぐってゴールを決める。そこでのボールさばきそのものは、いつの時代も一緒なんやから」(賀川)


