甲子園の風BACK NUMBER
「暴力、いじめ、窃盗…何でもあり」“甲子園準優勝の名門”沖縄水産の崩壊「設備はボロボロ…部費の横領事件も」“立て直しに尽力”元監督が驚愕した実態
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/06 11:07
沖縄水産にとって「最後の甲子園出場」となった1998年の夏。なぜ名門は凋落していったのか
「設備はボロボロなのに…」野球部監督の横領事件
学校全体が荒廃しているなかで、野球部に災難が降り掛かった。部費の横領が発覚し、当時の監督が日本学生野球協会から2年間の謹慎処分を受けたのだ。新垣は悔しさを滲ませながら話す。
「ネットもなく、マシンも壊れたままで、設備はボロボロ。ボールも全然ない状態です。なのに子どもたちから年間6万円ほどの部費が集められている。当時の部員は50名いて、300万円も集まっているのに、どこにも使われている形跡がない。遠征費にしても高額ではないかと思われる金額が徴収されていた。監督、コーチを出入り禁止にして監督室のなかを片付けていると、空の領収書が出てきました。結局、当時の監督は40万円を使い込んだことだけを認めた。実際はもっと大きな規模の横領だと思います。子どもたちは何も悪くないんです。当時の指導スタッフには今でも腹立たしさしかありません」
当時の監督は練習中、クーラーが効いた監督室でタバコを吹かしながらテレビを見ていたという。放置された選手たちはトレーニング室に籠って指導者の悪口を吐き出す。これでは信頼関係など生まれるはずがない。大人たちの汚い面を目にした選手たちの心がどんどん荒んでいくのは当然の摂理だ。新垣は、悪の温床となっていた監督室を物理的に「解体」した。
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自由奔放で破天荒な栽が監督時代になぜ結果を残せたか。それは選手たちから「栽先生についていけば甲子園に行ける」と絶対的なカリスマとしての信頼があったからだ。超がつくほどのスパルタ練習をさせても、選手たちは死にもの狂いでついてきた。そんな栽が亡くなってからというもの、選手と指導者の間に絆は芽生えず、次第にやさぐれていき、チームは弱体化の一途を辿った。
13年の夏の大会終了後、満を持して新垣が監督に就任する。果たして、荒れ果てた沖縄水産を変えることはできたのだろうか。
<続く>

