- #1
- #2
プロ野球PRESSBACK NUMBER
「阪神は当初、“おまけ”のつもりで獲得した」バースはなぜ“史上最強の助っ人”になれたのか?「アイツがひとりで考えたことなんよ」岡田彰布の証言
text by

内匠宏幸Hiroyuki Takumi
photograph byKYODO
posted2025/08/01 11:12
当初は「サブ要員」のような立場で阪神に入団したランディ・バース
本来、名前の表記は「バス」だったが…
初来日に際し、実におもしろい話題をふりまいた。実際の発音に即した場合、バースの正確な表記は「バス」だったが、阪神は電鉄会社でバス運行もある。安全運行が絶対の会社だが、もし打てなかったら新聞の見出しに「阪神バス急停車」とか「大ブレーキ」と扱われる……と危惧した球団が「バス」を「バース」にして選手登録。いきなりの笑い話となった。
1983年シーズンがスタートしたが、メインのはずのストローターはまったく使いものにならず、逆にサブのはずのバースの働きは目を見張るものがあった。そのシーズン、いきなり35本塁打。2年目も27本塁打で打率は.326。この数字が偶然ではないことを、この男が証言している。
前OB会長の川藤幸三である。
ADVERTISEMENT
「初めてランディと会ったのはマウイキャンプやった。その時から軸がブレないバッティングをしていたが、ワシはそれより日本に馴染もうとする姿勢を強く感じた」
川藤によると野球の技術的なことを聞かれたことはなかった。
「アイツもよくわかっていたわ。ワシに野球のことを聞いてもな、ということで、ワシには将棋や麻雀を教えてくれとか、メシに連れていけとか、何から何まで吸収しようとしてた」
川藤がいまでも強く印象に残っているのが箸の使い方だった。「ワシもいっぱい外国人と接してきたけど、あれだけ箸をうまく使う外国人は初めてやった」。バースは貪欲に日本色に染まろうとしたのである。
チームに確信を与えた「3連発の1発目」
迎えた3年目。1985年シーズンは彼にとって最高、最良の1年になった。その年の2月、キャンプで真弓明信と掛布雅之はこんな話をしていた。
「今年はいけるんやないか。それもこれも、バース次第やな」
チームの強さを感じていた2人はバースをキーパーソンに挙げていた。そして「あの日」を迎える。4月17日の甲子園での巨人戦。伝説のバックスクリーン3連発の1発目。バースが槙原寛己から放った逆転ホームランに、真弓も、2発目の掛布も、そして3発目を放った岡田彰布も「バースが打った。これでウチはいける」と確信したという。ファンの語り草になった3連発。ベンチを安心させたのは、じつはバースの1発目だったのだ。

