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亀田家と和解、大阪・西成で再起…興行師・金平桂一郎が抱く新たな野望「中央アジアからボクサーを輸入する」“井上尚弥”というボーナスタイムへの危機感
posted2025/08/04 11:03
興行師としてボクシングの未来について語った金平桂一郎。今年11月で60歳になる
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栗田シメイShimei Kurita
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亀田和毅との再会を経て、ボクシングへの情熱を取り戻した金平桂一郎。協栄ジムの2代目としては、会長職を失い、名門の評判を地に落としたという評価もある。だが、興行師としての金平はまた違った側面を持つ。
興行師としての顔
長年、「帝拳ジム一強」とも言える日本ボクシング界のプロモートだが、父・正紀が辣腕を振るった1970、80年代は協栄ジムが隆盛を誇っていた。金平自身も旧ソ連や海外とのパイプを活かし、「金平のセガレ」として世界的な名手との交流もあった。特に勇利アルバチャコフと共に1989年にソ連から来日した、ジム8人目の世界王者であるオルズベック・ナザロフ(ライト級)との付き合いは血肉となる。
「ナザロフはとにかく強さが半端じゃなかった。人気は勇利に譲りましたが、見ていて怖さを感じるボクサーはナザロフだった。強すぎて誰もがスパーリングを嫌ったくらいですから。国内ではパートナーが務まるのが畑山隆則君、坂本博之君くらいでした。ナザロフにボコボコにされても最後まで立つ姿を見て、『彼らは強くなるな』と感じたものです。必然的に、海外を飛び回り対戦相手を探す交渉をするしかなかったわけです」
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金平はアルゼンチンで開催されたWBCのコンペティションで、超大物とも接触している。
「オスカー・デラホーヤ(当時WBCスーパーライト級王者)にナザロフとの対戦を要求しました。デラホーヤはナザロフのことをよく知っており、『基礎技術がしっかりした非常にやっかいな選手だ』と評していた。ですが、結局金銭的な条件に対して“リスク”が折り合わずで、首を縦に振ってくれなかった。もし対戦が実現していたら、ナザロフの評価は変わっていたはずです。ナザロフほどのボクサーでも、興行はほとんど赤字でした。それがボクシング興行の難しさを表しています」

