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死んだ父が残した借金30億円完済も「酒に逃げた…」“このままじゃ確実に死ぬ”と診断された金平桂一郎を救った亀田興毅という宝物
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栗田シメイShimei Kurita
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/04 11:01
金平桂一郎が会長を務める協栄ジムへの移籍会見でポーズをとる亀田興毅と父・史郎さん(2005年6月)
朝から缶チューハイを5、6本。夜は焼酎のボトルを一人でカラにする。そんな生活が3年ほど続く頃、医師からはこんな宣告を受けた。
「これ以上お酒を飲み続けたら確実に死にます。強制入院が必要です」
そんな折に出会ったのが、亀田家だった。
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2005年4月。グリーンツダジムから、亀田興毅と父・史郎が協栄ジムに移籍する。当時の報道によれば、ポスティングシステムにより移籍金は3000万円だったという。
金平は当時、「亀田興毅はボクシング界の宝になる」と言い続けていた。今でも金平はその考えは間違っていなかった、と考えている。ボクシング人気低迷を打開するための大衆へも届く影響力は目を見張った。そして、協栄ジムの復興の救世主となるはずだった。
亀田家との間に生まれた溝
協栄ジムへの移籍後、亀田興毅は連勝街道を重ねた。「強者と戦っていない」というマッチメイクへの不満も囁かれていたなか、2006年8月にはWBA世界ライトフライ級王者となる。何より、亀田の名前でチケットは飛ぶように売れた。興行師としては、亀田ブランドは金のなる木でしかない、と感じられた。
「興毅の優れていた点は、セルフプロデュース力に長けていたことです。自身の価値を高める手法に圧倒的に長けていた。スポンサーさんとの付き合いや交渉なども、彼の判断で行うこともあった。そんなことが出来るボクサーはいませんでしたから」
しかし、次第に亀田家と金平との間に溝が生じつつもあった。マッチメイクに関しても、会長と亀田家との間で齟齬が生じ始める。移籍から2年が経つ頃には、遠く離れた東京・葛飾の道場で練習を行うようになる。トレーナーも引き揚げ、次第にコントロールが出来なくなっていったという。はっきり表現するならば、金平は亀田家との折衝が出来ず、ジムの会長としての責務を全うできなかったともいえる。

