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71歳で死去…超人ハルク・ホーガンはプロレスをどう変えたのか? アントニオ猪木「最初はでくのぼうだった」“筋肉お化け”が世界的スターになるまで 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2025/07/29 17:00

71歳で死去…超人ハルク・ホーガンはプロレスをどう変えたのか? アントニオ猪木「最初はでくのぼうだった」“筋肉お化け”が世界的スターになるまで<Number Web> photograph by Essei Hara

ハルク・ホーガンの筋肉パフォーマンスにファンは熱狂した。世界中のプロレスファンを魅了した超人は71歳で天国に旅立った

プロレスを数十億ドル規模のビジネスに育てた立役者

「アックスボンバー」と叫んだ古舘伊知郎は、これをネプチューンの持つ「三つ又の槍」と形容したが、この「斧爆弾」をフィニッシュとして使用するのは日本限定だった。最初にアックスボンバーを浴びたのは藤波辰爾だった記憶がある。アメリカではレッグドロップ(ギロチンドロップ)でのフィニッシュが多かった。

 タッグを組むようになってからは猪木の傍らで試合後、うまそうにビール瓶を口にするホーガンがいた。

 新日本プロレスの外国人エースがホーガンになったが、ビンス・マクマホンから息子のビンス・マクマホン・ジュニアの時代に入ると、WWFは躍進し、新日本プロレスとWWFの蜜月の時代は終焉を迎える。

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 でも、猪木はホーガンの成功を喜んでいた。晩年、ホーガンの娘で歌手のブルックがCDデビューの時は猪木を頼ってきたし、その後に来日した時も猪木と会っている。

 WWF(現WWE)が1985年にレッスルマニアを始め、ニューヨークというエリアを抜け出しプロレスを数十億ドル規模のビジネスに成長させていった立役者がホーガンだった。そこにアンドレといった規格外の相手がいたのも幸運だったが、ホーガンの名前は世界中に知れ渡った。リングネームはコミックやテレビシリーズの『超人ハルク』からとったものだが、そのパフォーマンスはリング上でもスクリーンの中のヒーローと変わらなかった。

 第3回のレッスルマニアのアンドレ戦ではポンティアック・シルバードームに9万3173人という大観衆を集めることができた。

 1980年代後半から世界中の空港の売店にはWWFマガジンやホーガンの人形が置いてあった。これはWWFの戦略だった。

 WWFとWCWのレッスル・ウォーでもホーガンの存在は特別だった。WCWがホーガンやnWo(ニュー・ワールド・オーダー)のパワーでWWFを圧倒した時もあった。

盟友トランプも追悼「強くて、タフで、スマートで…」

 ステロイド使用問題や人種差別発言などのスキャンダルもあったが、「プロレスのアイコンを超えたアイコン」としての知名度は昨年のドナルド・トランプの大統領選でも有効に使われた。

【次ページ】 『Number』から依頼された天龍との2ショット

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