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アントニオ猪木“舌出し失神事件”で大ブレイク…ハルク・ホーガンはなぜ新日本プロレスから“世界のスター”になったのか? 日本と縁深かったプロレス人生 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2025/07/27 11:20

アントニオ猪木“舌出し失神事件”で大ブレイク…ハルク・ホーガンはなぜ新日本プロレスから“世界のスター”になったのか? 日本と縁深かったプロレス人生<Number Web> photograph by AFLO

新日本プロレス時代のハルク・ホーガン(1982年撮影)

「親日家」「猪木の味方」イメージ戦略も駆使した

 こうして1982年にホーガンは大ブレイクをはたす。それはハンセンが新日本を去ったことでトップに繰り上がったというだけではなく、必然とも言える要因があった。

 新日本はホーガンと新規契約を結んだあと、単にハンセンの後釜に据えるのではなく、日本側に組み入れベビーフェイスとして売り出していった。それに呼応するかのようにホーガン自身もベビーフェイス仕様にマイナーチェンジしていく。まず、成田空港の土産物屋で見つけた『一番』と書かれたTシャツが「ナンバーワン」を意味する日本語だと知ると普段着として着るようになり、試合コスチュームもこれまでの白や黄色のタイツから猪木と同じ黒に変え、そこにも『一番』の刺繍を入れた。

 こうしてさりげなく親日家をアピールして、「猪木の味方」というイメージを与え、日本のファンに愛されるようになった。ザ・ビートルズが初来日した時、JALのはっぴ姿で羽田空港に降り立った例を出すまでもなく、日本人は海外のスターが日本的なものを身につける姿に弱い。そういった細かな戦略にも長けたホーガンは、ハンセンやシンとは別次元の人気を獲得していくのだ。

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 そして82年暮れの『MSGタッグリーグ戦』では、猪木とタッグを組んで、見事に優勝。ふたりで優勝トロフィーを手にしたとき、スーパースター猪木の横に並んでも、まったく位負けしないオーラをまとったホーガンの姿があった。初来日からわずか2年半で、ホーガンはここまで大化けしたのだ。

 また、この1982年はホーガンがレスラーとして、大きく成長した年でもあった。冒頭で記したとおり、ホーガンは猪木とタッグを組むようになり、間近で猪木を観察することで、ベビーフェイスとは何か、国民的スターとは何かを学んでいった。そこでホーガンは、猪木が24時間、365日、常に“アントニオ猪木”を演じ続けていたことを知る。そしてホーガン自身、24時間体制のハルク・ホーガンを構築していったのだ。

“舌出し失神事件”がとてつもない箔をつけた

 そして1983年、新日本プロレスは3年越しで開催にこぎつけた、世界一決定リーグ戦「IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)」を開催する。決勝戦は猪木vsホーガン。誰もが猪木の優勝、真の世界一の座に就くことを疑わなかったこの試合で、ホーガンは必殺のアックスボンバーで猪木をKO。猪木が舌を出したまま失神するという衝撃の幕切れとなった。

 あのIWGP決勝戦の結末は、猪木の“自作自演説”をはじめ、さまざまな説が存在するが、“舌出し失神事件”という日本のプロレス史に残る事件の当事者となり、第1回IWGPに優勝したという事実は、ハルク・ホーガンにとてつもない箔をつける結果ともなった。そして、その巨大化した存在感は、次第に新日本の手に負えないものとなっていく。

 83年12月、ホーガンはビンス・マクマホンのWWF全米進出プロジェクトのエースとして白羽の矢が立てられ、WWFと専属契約を締結。84年1月にアイアン・シークを破りWWFヘビー級王者となったホーガンは、全米でプロレス市場の勢力分布図を根底から変えるほどの人気を獲得し、85年後半からは新日本の手の届かない存在となった。

 1984年に始まったスーパースター、ハルク・ホーガンを主役としたWWFの全米ツアー興行と、ケーブルテレビによる全米放送、PPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放送)の導入は、プロレス市場自体を根底から変えた。近代プロレスは、ハルク・ホーガンの人気爆発から始まっているのだ。

【次ページ】 原点は、“新日本でのルーキー時代”にあった

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