ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER

アントニオ猪木“舌出し失神事件”で大ブレイク…ハルク・ホーガンはなぜ新日本プロレスから“世界のスター”になったのか? 日本と縁深かったプロレス人生

posted2025/07/27 11:20

 
アントニオ猪木“舌出し失神事件”で大ブレイク…ハルク・ホーガンはなぜ新日本プロレスから“世界のスター”になったのか? 日本と縁深かったプロレス人生<Number Web> photograph by AFLO

新日本プロレス時代のハルク・ホーガン(1982年撮影)

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE

photograph by

AFLO

 世界のプロレス史上最大のスーパースターであるハルク・ホーガンが、7月24日アメリカ・フロリダ州の自宅で亡くなった。享年71。

 ハルク・ホーガンは“超人”の異名を持ち、日本でも1983年の第1回IWGP決勝戦で、アントニオ猪木を必殺のアックスボンバーで失神KOで下し優勝するなど大活躍。トップ外国人レスラーとして絶大な人気を誇ったが、世界での知名度はそれこそ半端ではない。

 現在、世界165カ国(20言語)で放送され、SNS総フォロワー数10億以上を誇る世界最大のプロレス団体WWEが、ニューヨークのいち老舗プロレス団体から、世界的エンターテインメント企業に躍進する原動力となったのがハルク・ホーガンの存在だった。

ADVERTISEMENT

 WWEが全米、そして全世界のプロレスマーケットを制圧した栄光の歴史は、84年1月23日、ニューヨークの殿堂マディソン・スクエア・ガーデンで、ホーガンがアイアン・シークを破りWWF(現WWE)世界ヘビー級王者になったところから始まっている。

 そんなホーガンがスターダムに上り詰めるきっかけをつかんだのが、じつは新日本プロレスのリングだった。ホーガンは80年代前半、プロレスブーム真っ只中の新日本プロレスで、アントニオ猪木を間近で観察しながら“国民的ヒーロー”のなんたるかを学んでいったと言われる。そして新日本でトップレスラーとして覚醒し、アメリカでプロレス史上最大のスーパースターとなったのだ。そんなホーガンの足跡をあらためて振り返ってみたい。

◆◆◆

ルーキーながら大物感を漂わせて来日

 ハルク・ホーガンこと本名テリー・ボレアは、1977年にフロリダ州タンパ在住の日本人レスラー、ヒロ・マツダのコーチを受けてデビューをはたす。レスラー人生のスタートから、何かと日本と縁が深かった。

 79年12月、デビューからわずか2年で、ニューヨークのメジャー団体WWF入り。ここで先代のビンス・マクマホン・シニア代表から「ハルク・ホーガン」というリングネームを与えられる。そしてWWFでの半年間のサーキットを終えたあと、80年4月、新日本プロレスの「第3回MSGシリーズ」で初来日をはたす。

 ホーガンが初来日したMSGシリーズは、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランド、ダスティ・ローデスなど、そうそうたるメンバーが参加していた当時の新日本年間最大の祭典。ホーガンはこのツアーで超一流選手とともに旅をすることで、スーパースターとしての“振る舞い”を身につけていった。

【次ページ】 ホーガンをトップに押し上げた“引き抜き合戦”

1 2 3 4 NEXT
#ハルク・ホーガン
#アントニオ猪木
#新日本プロレス
#WWE

プロレスの前後の記事

ページトップ