巨人軍の黄金時代は、生え抜きの精鋭たちを猛特訓で鍛えることによって築かれた。多摩川で、伊東で、数多の選手がしごき抜かれ、血と汗と涙をグラウンドに流してきた。地獄から這い上がってきた男たちは、一段と結束し、戦う集団へと変貌していったのだ。
「人里はなれた多摩川に 野球の地獄があろうとは 夢にも知らないシャバの人 知らなきゃおいらが教えましょ」
歌のタイトルは『多摩川ブルース』。V9時代に“赤い手袋”で一世を風靡した切り込み隊長、柴田勲が当時の流行歌の替え歌として作ったもので、「野球の地獄」に耐える巨人軍の二軍選手の間で脈々と歌い継がれていった。
柴田は当時をこう振り返る。
「雨が降っても平気で練習しましたね。ONが率先して練習に取り組むのだから、下の者が文句を言えるはずもない。巨人の伝統は猛練習の歴史なのかもしれません」
まだドラフト制度がなかった1960年代、巨人軍のユニホームに憧れて全国から集まって来た選手たちは、多摩川河川敷のグラウンドで汗を流し、泥にまみれていた。
寮暮らしをしていた王貞治は、当時の自分をこう回想する。
「練習が終わってクタクタになって、歩くのもいやだった。多摩堤通りを通るオート三輪に乗せてもらい、中原街道と接する丸子橋のたもとで降りて、対岸にある寮まで帰るのがやっとの毎日だった」
血反吐を吐く猛練習が「巨人の星」を育てた。
かつて巨人軍の強さは猛練習によって培われていた。生え抜きの選手を鍛え上げ、巨人の伝統を叩き込み、一人前に育てていく。その選手たちが戦う集団となったからこそ、数多の栄光も生まれたのだ。
伝説として残っているのは球団創設まもない'36年に行われた、茂林寺(群馬県館林市)の猛特訓。2度の米国遠征の後、慢心と気の緩みによって弱体化していたチームを引き締めるため、藤本定義監督が白石敏男、永沢富士雄らに、彼らが血反吐を吐くまで猛ノックを浴びせた。
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photograph by Makoto Kemmisaki