革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER

「『石井さんには実力がない』だと!?」衝撃の年俸6割カット提示で石井浩郎まで…野茂英雄ら主力が軒並み去った「1994年の近鉄」とは何だったのか 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2025/06/13 11:10

「『石井さんには実力がない』だと!?」衝撃の年俸6割カット提示で石井浩郎まで…野茂英雄ら主力が軒並み去った「1994年の近鉄」とは何だったのか<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

1994年限りで野茂、阿波野、吉井、金村らが近鉄を去り、チームは最下位に沈んで鈴木監督も休養した。そして石井浩郎も球団の冷たい仕打ちを体感することに

「近鉄を出る理由なんて一切なかった」

 25歳でのプロ入り。入団直後に急性肝炎で入院。1軍デビューは90年5月と出遅れながらも、ルーキーイヤーから5年連続20本塁打以上、その5年目にあたる94年には自己最多の33本塁打、さらに111打点で打点王。石井はまさしく「近鉄の顔」であり、未来の幹部候補生とも言われた存在だった。

 社会人のプリンスホテルに在籍していた89年、広島から「2位」での指名を約束されたことで、他球団にはいったん、指名の断りを入れていたという。ところが、直前で広島の指名方針が切り替わったという連絡を受け「プロはないな」と諦めかけていたところ、近鉄の3位指名があったという。

「近鉄に獲ってもらって、そういう恩義というか、仰木監督に生かしてもらったし、近鉄を出る理由なんて一切ない、ホントにこのまま近鉄で、他球団で野球をやるなんて全く頭になかったんです」

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 その“近鉄愛”がぐらついたのが、年俸の6割カット提示だったのだ。

テレビで人気者に、そして選挙出馬

「近鉄球団が残っていれば、監督だってやらせてもらっていたかもしれない。野球の世界にどっぷり、まだいたかもしれない。それが、ジャイアンツという球団に行った。そうしたら、毎週、日本テレビの『THE・サンデー』という徳光和夫さんの番組で、私のコーナーができたんです」

 日本テレビ「THE・サンデー」は、1989年10月から2008年9月まで、毎週日曜朝に放送されていた情報番組で、巨人ファンのフリーアナウンサー・徳光和夫が長くメーン司会者を務めていた。その番組内での企画の一つが「拝啓、石井浩郎です」という石井一人をフィーチャーしたコーナーだった。視聴者からの反響も大きく、巨人在籍中の3年だけでなく、その後にロッテ、横浜と移籍した時も含めて6年近く続いたという。

「それがなぜかもう、選挙に出るには大変ありがたかったんです。何しろ、野球を知らない人まで、私を知ってくれるようになるわけですから」

【次ページ】 彼らにとって「1994年の近鉄」とはなんだったのか

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