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「僕はひとりで勝ってきたと思っていたけど…」達川光男がいま明かす“白血病のエース”北別府学から届いた一通の手紙<広島カープ・バッテリー秘話>
text by

酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph byShiro Miyake
posted2025/06/17 17:29
1980年代に扇の要として広島カープの黄金時代を支えた達川光男
北別府は「精密機械」と称されるコントロールで生きてきた。カーブで緩急をつけ、球界随一の投球術を誇った。'82年に20勝を挙げると、優勝した'86年は18勝をマーク。両年ともに沢村賞と最多勝に輝いた。
達川は2歳年下のエースの気概に惚れ込んでいた。「アイツはね、何といっても闘争心よ。そんななかでも、キャッチャーに優しい。打たれても絶対にキャッチャーのせいにすることがなかった」。ふたりのあいだに流れる時間にはよどみがなく、テンポのいい投球で試合を進めた。北別府はコンビを組む相棒のことをこう評している。
《達川さんと組むのが理想だった。理由は投球のリズムですよ。私は捕手のサインに首を振りたくないタイプだった。首を振ると、それだけで集中力がそがれる感じになる》(デイリースポーツ、'24年1月9日)
寮に戻るとコーチが「1球目から全部、言え」
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そして、北別府は試合中、マウンドにやってきて数年前に抑えた局面について話しはじめる達川の記憶力に驚いたという。
達川には、捕手のリードは感性と記憶力に拠るものだという自負があった。だから、地道に記憶力を磨いてきた。若い頃、達川が試合後、寮に戻るとコーチが待っていた。
「1球目から全部、言え」
試合の配球をプレーボール直後から振り返っていく。諳んじるまで5年かかった。
北別府は捕手冥利に尽きる投手だった。球速がない分、達川はストライクゾーンの内外高低と緩急で抑える術を学び、自らの配球で勝ちを掴んでいく。その積み重ねが捕手としての自信になった。だが、登板を重ねるほど怖さも募っていった。
「北別府はコントロールを間違わず、サイン通りに来たからね。サイン通りで打たれるということは僕のサインが悪いということ。相手に読まれているということだから」
'91年はふたりにとって特別なシーズンになった。北別府は過去2年、2桁勝利に届かず、防御率が5点台に落ち込むなど低迷。ベテランの域に入り、踏ん張りどころを迎えていたが、達川のフォローも受けながら再び2桁の11勝を挙げて蘇った。
だからこそ、達川はいまもなお、1球の悔いを忘れることができない。
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