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「松坂さんの記録を超えなければよかった」甲子園最速の158キロで“21世紀の怪物”と言われた寺原隼人、24年越しの告白…「スーパールーキー」その後の人生
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田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byKotaro Tajiri
posted2025/06/02 11:02
現在はホークスの3軍投手コーチを務める寺原隼人さん(41歳)
「あれもメチャクチャ覚えています(笑)。みんながハイタッチをしているマウンドまで行ったら、井口(資仁)さんや鳥越(裕介)さんに『何しに来たんや?』と言われて、『あ、やったな俺』って気づきました。あの日、抑えのペドラザが記録(当時の外国人最多セーブの99セーブ)を達成したのですが、僕にウィニングボールをくれました」
勝利のハイタッチ。寺原は「10人目の選手」でその儀式に参加すると、ベンチの先輩たちはまた大爆笑していたという。チームの中で弟のように可愛がられていたのを象徴するエピソードだ。
「松坂さんの記録を超えなければよかった」
5月29日には松坂との投げ合いも実現した。寺原は中4日で立ったマウンドで6回108球を投げ、散発4安打の2失点と力投。試合は3対2でダイエーが勝利し、松坂に投げ勝っての白星も手にした。
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「開幕してすぐの4月にデビューして、初勝利も挙げた。1年目は6勝、2年目は7勝したんです。松坂さんの成績には到底及ばなかったですが、自分の中では順調といえば順調でした」
だがしかし、怪物と謳われた寺原には誰もが剛速球を期待していたのだが、思ったほどスピードが出ない日が続いた。実際、150キロ台はほとんど見られなかった。
「スピードへのこだわりは、結構早い段階で捨てていたんです」
寺原はそんな風に言う。
「プロには速い球を投げる人がいくらでもいました。もちろん僕自身、スピードには自信があったので初めの頃は速いボールを見せてやろうとガムシャラに投げたけど、実際は簡単に打ち返されましたから」
よく言われるように“球速よりも球質”だと寺原は気づいていたのだ。しかし、世の中が寺原に求めるのはスピードのまま。そのギャップに苦しんだ。
フォームを試行錯誤する中で故障もした。3、4年目は未勝利に終わる。5年目は復活勝利を飾るも3勝7敗。そのオフの12月、多村仁志との交換トレードで横浜へ移籍することになった。
「勝てなかった時期が一番つらかった。いつまでも松坂さんと比べられる。松坂さんの記録を超えなければよかった……そんな風に思ったこともありました」
横浜ではリリーフで活躍して球速が150キロ台後半まで戻った時期もあった。そしてオリックス、ソフトバンク、ヤクルトと渡り歩き計18年間プレー。通算73勝81敗23セーブというキャリアを残した。

