革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
1994年「野茂英雄の191球」と2016年「藤浪晋太郎の161球」は“さらし投げ”だったのか? そして起こった右肩の不調から野茂“日本最終登板”まで
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/16 11:04
今では考えられない「191球」。そして野茂の調子は下降し…22年後の藤浪晋太郎も似た軌跡を描いていったように思えるが
191球完投から中6日で臨んだ7月8日の西武戦(ナゴヤ球場)は、8回2失点で8勝目。その後、野茂の右肩がとうとう“悲鳴”を上げる。
同15日のオリックス戦(グリーンスタジアム神戸=当時)に、中6日で先発した野茂だったが、1回2死からDHのタイゲイニーに7号先制ソロを許すと、4番の平塚克洋には四球、続く本西厚博に3号2ランを浴びて、いきなり3失点。2回も先頭の岡田彰布、高田誠に連続四球。このピンチは無失点にしのいだものの、続く3回のマウンドには、野茂の姿が、もうなかった。
自己申告した肩の痛み
「いつもとは痛みの感じが違います」
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右肩痛を自ら申告して、降板したのだという。
「そりゃ、痛くなるよ」と佐野重樹(現・慈紀)が言えば、阿波野秀幸も「あいつ、あんまり痛いとかいう男じゃないんだけど、そういうことを言ってたということは、結構きつかったんだな」。
復活を期して、野茂は福岡にたびたび足を運び、かかりつけの病院で治療に専念した時期もあったという。私は直接取材に行ったわけではなく、あくまで伝聞なのだが、その病院では、野茂のためにマウンドを整備し、投球練習ができるようにもしていたという。
チームの好調は続いていた
それでも野茂不在の7月16日から8月23日までの28試合、近鉄は20勝7敗1分け。開幕当初の低迷がウソのように、8月10日にはパ・リーグの首位にも躍り出るなど、西武、オリックスと三つ巴の激しい首位争いを展開していた。

