革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
1994年「野茂英雄の191球」と2016年「藤浪晋太郎の161球」は“さらし投げ”だったのか? そして起こった右肩の不調から野茂“日本最終登板”まで
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/16 11:04
今では考えられない「191球」。そして野茂の調子は下降し…22年後の藤浪晋太郎も似た軌跡を描いていったように思えるが
その見方は全然なかった
光山英和に、私の“こじつけ”をぶつけてみたが「それ、全くないですね」と一笑に付された。
「その当時は、その見方は全然なかったです。野茂本人もそれを望んで、周りも全部、僕らもそれを望んでいるし、ベンチも望んでいたんです。今だったら大ごとでしょうけど、そこまで(球数が)行かないです。もしそれが行われて、それで負けたら、監督がクビになるかもしれないような問題になるんじゃないですか?
藤浪のときの金本監督って、懲罰させた、っていう感じに見られてるじゃないですか。でも、ああいうのも多分、監督自身は懲罰だと思ってなんかいないと思いますよ。ここで他のピッチャーを投げさせたくないとか、他の理由があったと思うんですよ。むしろ、期待の表れでもありますよ。でも、時代がもう、それを許してくれないことになっていますから」
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野茂の191球が31年前、藤浪の161球が9年前。いまや、高校野球の公式戦でも1投手の投球数が「1週間でトータル500球」に達したら、試合中でもそれ以上投げてはいけないという「球数制限」が課される時代だ。
プロの指導者として、投手のコンディションや球数をそれこそ厳重に管理する立場になった今、その“時代の変化”を最も痛感しているのは、191球全球を捕手として受けた当事者の光山なのかもしれない。
「191球完投」の後に起きたこと
その「191球完投」が、直接の原因だと断言するだけの証拠や関係者の証言があるわけではないので『だから』という繋げ方はできない。
しかし、それが遠因になったと推察することも、また容易な流れでもある。

