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「おいおい、密約かよ…」中日がドラフト3位で“まさかの強行指名”「星野仙一が獲得を熱望した」甲子園のヒーロー“密約説は真実か?”本人に聞いた真相
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byOkinawa Times/KYODO
posted2025/05/04 11:03
1987年12月、中日入団会見で握手をかわす星野仙一と沖縄水産高校の上原晃
初球だった。球が指先を離れた瞬間、歓声が悲鳴へと変わる。ボールはインコース、ベース手前へのワンバウンド。キャッチャーがプロテクターに当てて横に弾き、カバーに入るため上原が駆け寄ったが、時すでに遅し。期待の1年生投手が、暴投でサヨナラ負け。本人にとっては不本意な形で、全国にこれ以上ないインパクトを与えた。上原晃と言えば“あのサヨナラ暴投”が代名詞となり、半世紀近くが経つのに沖縄ではいまだに「甲子園の悲劇のヒーロー」として語られている。
「甲子園のヒーロー? 俺は甲子園の暴投王だよ」
SNSもなくメディアの多様性もない80年代は、夏の甲子園は国民的な娯楽であり、テレビ・新聞・雑誌での扱いも現在とは比べものにならないほど大きかった。ちょうどその時期、横浜高校の愛甲猛から早稲田実業の荒木大輔、夏春連覇を達成した池田の水野雄仁、そしてPL学園のKKと球史に残る甲子園のアイドルが連鎖して生まれた。KKの後のスターは誰かとメディアが躍起になっていたところに、精悍なマスクの1年生投手がサヨナラ暴投をしたことで、その悲劇性も含めて白羽の矢が立ったのだ。
「甲子園のヒーローと言われているか知らないけれど、俺は甲子園の暴投王だよ。1年夏はサヨナラ暴投、2年夏も準々決勝(松山商業戦)の最終回に暴投で点差を縮められてサヨナラ負け。優勝するためだけにやってきたけど、3年の夏は2回戦で常総学院に7対0で負けた。自分の力はまだまだだと実感して大学進学を決めました。とにかく沖縄出身というのは常に頭にあって意識はしていましたよ。当時の沖縄では『大臣が先か、甲子園優勝が先か』と言われていたし、どこに行っても沖縄人だからね」
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今でこそ沖縄といえばリゾート地のイメージだが、当時は本土復帰して間もない特殊地域という印象のほうがまだまだ強かった。現在も継続している基地問題をはじめ、政治的な軋轢や外部からの抑圧は県民の生活と密接に結びついていた。だからこそ、人々は“沖縄の星”に思いを託したのだ。県民にとって上原晃は希望であり、未来だった。

