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「立浪和義の同期」じつは“もうひとりいた”中日の高卒スーパールーキー「あの伊良部秀輝より速かった剛速球」「不敗神話で優勝に貢献」上原晃の伝説
posted2025/05/04 11:04

プロ1年目、当時19歳の上原晃。全身を大きく使った豪快なフォームで快速球を投げ込んだ
text by

松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph by
Sankei Shimbun
恩師の親心「最低半年は下で育ててほしい」
1987年、中日にドラフト3位で指名された上原晃は、一度は決まりかけていた明治大学への進学からプロ入りへと舵を切り、紆余曲折を経て入団を決める。球団の未来を担う逸材として、入団前から星野仙一監督の期待値は高かった。
ドラフト指名された同期が次々と契約をかわすなか、上原の入団交渉は難航し、暮れの押し迫った頃にようやく入団が決まった。とはいえ結果的に、中日は上原と立浪和義という投打の逸材のダブル獲りに成功した。
年が明け、自主トレが始まり2月1日のキャンプイン。上原はルーキーのなかでも最も遅い2月17日に合流した。これには訳がある。沖縄水産監督の栽弘義が学校の行事が忙しいと言って、わざと遅れてキャンプに参加させたのだ。
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「後になって聞いたんですが、栽先生が星野さんに『球が速いからといってすぐに使わず、最低半年はじっくり下で育ててほしい』って頼んだらしいんです。自分の教え子を含めて、沖縄出身の選手の多くがプロ野球に入ってすぐ体を壊してしまう。そういった背景も含めて、じっくり育てて使ってくれという意図があったんだと思います」
沖縄人にとって内地の冬の寒さは、「強烈に冷えた冷蔵庫に入っているのと同じ」だという。栽は沖縄出身のプロ野球選手が内地の冬から春にかけての調整方法に苦労していることを見聞きしてきたため、真面目な上原がいきなり張り切ってパンクすることを恐れた。だからこそ星野に「すぐに使うな」と念を押した。栽の親心であり、「なんとしても上原を一流にしてほしい」という沖縄人としての願いでもあった。