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「おいおい、密約かよ…」中日がドラフト3位で“まさかの強行指名”「星野仙一が獲得を熱望した」甲子園のヒーロー“密約説は真実か?”本人に聞いた真相
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byOkinawa Times/KYODO
posted2025/05/04 11:03
1987年12月、中日入団会見で握手をかわす星野仙一と沖縄水産高校の上原晃
明治大学に進むはずが…中日“まさかの強行指名“
上原は野球を始めた小学校5年生からプロ入りを目標にしていた。沖縄水産を選んだのも甲子園に一番近い学校なら厳しく鍛錬できると思ったからだ。すべてはプロ入りのため――だが、4度出場した甲子園で優勝できなかった上原は、明治大学への進学を表明した。当時、プロ志望届はなく、学校に退部届を出すことだけがプロ側と交渉できる唯一の手段。上原は退部届を出さなかったためプロ側とは一切接触することができず、沖縄水産の栽弘義監督が窓口として対応していた。しかし、ことはそう簡単に進まない。
1987年11月のドラフト会議で、中日が3位で上原を強行指名したのだ。この時点で関係者やメディアは憶測をめぐらせる。「おいおい、密約かよ……」と。この2年前のドラフトでは、巨人が早稲田大学に進学予定だったPL学園の桑田真澄を1位指名し、密約説がささやかれた。そんな状況のなか、中日は1位でPL学園の立浪和義、3位で上原晃と、実質2人のドラ1級の高校生獲得というウルトラCを敢行したのだ。
この年は、高校生投手の豊作年だった。春夏連覇のPL学園の野村弘、橋本清、尽誠学園の伊良部秀輝、函館有斗の盛田幸妃、東亜学園の川島堅、帝京の芝草宇宙と、のちにプロで活躍した投手たちが目白押しで、6球団がドラフト1位に高校生を指名し、そのうち4人が投手。そのなかでも上原は1年夏から甲子園のスターとして君臨し、世代ナンバーワン級のピッチャーとしてドラフトの目玉になるはずだった。しかし、上原は早くから進学を打ち出すことでプロ入り拒否の姿勢を示す。沖縄水産としても上原を明治大学に進学させることで東京六大学とのパイプを太くしたかった。
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「明治のセレクションに行っているからね。ブルペンの後ろから島岡御大が車椅子で見ていて『うん、いいボール投げるな』と言われました。寮も案内されたんですけど、現役の大学生と話す機会があって『上原、明治には来るな』と小言で耳打ちされた。ああ、よっほど厳しいんだろうなって。日ハムに入った武田(一浩)さんが当時4年生で、ちょっと話した記憶がありますね」

