革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
「開幕戦は野茂と心中や」1994年“史上初の快挙”へ快投を続ける野茂英雄に鈴木啓示監督が寄せていた“信頼”と“不満”…「もっと走らなアカン」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/05/02 11:04
自身300勝の大投手だった鈴木啓示監督は野茂への信頼を口にしていた。開幕戦で史上初の大記録が近づく中、鈴木監督の采配は…
ただ、そんな情熱や喜怒哀楽を表に出すタイプでは決してない。悪く言えば、どこか、しれっとした印象すら持たれてしまうほど、常にポーカーフェースを崩さない。練習法に関しても、ブルペンでの球数は最小限。遠投でフォームを固め、ウエートトレーニングで体を作り上げ、肩のコンディショニングを整え、インナーマッスルを鍛えるためにゴムチューブを引っ張る。
かつての大投手の“不満”
令和の時代なら珍しくも何ともないそれらの取り組みは、ひたすら走り込み、何百球とブルペンで投げ込むことで、日本歴代4位の通算317勝を挙げ、一時代を築いたかつての名投手だった監督・鈴木啓示のやり方と、それこそ完全に真逆のものだった。
その“不満”を、番記者にも公然と、野太い声で鈴木は主張する。
ADVERTISEMENT
「もっと走らなアカン」「ブルペンの300球が、試合の100球や」
猛練習と精神論。番記者として、そのポリシーを私も何度となく聞かされた。常に体中から、投手としてのプライドと情熱がほとばしり、圧倒されるような雰囲気すらあった。
野茂と鈴木との“完全対立”は、当時の番記者たちにとって、何とも面倒くさい取材である一方で、誰もがそこに関心を寄せ、注目していた。会社の編集デスクからは、その不仲ぶりを常に強調し、面白おかしく原稿にすることも求められていた。
「開幕戦は、野茂と心中や」
その鈴木が開幕前日、1994年の開幕投手を野茂に告げたのは、1993年10月17日の西武戦後のことだったと明かした。つまり、前年の最終戦に通達済みだったのだ。
「開幕戦は、野茂と心中や」——。
それが、エースへの信頼の表れだった。投手としてのポリシーが違おうとも、お互いの力は認め合う。それが、プロフェッショナルの矜持でもある。
近鉄が、開幕戦でベンチに入れた投手は野茂を含めて6人だけ。野茂が打ち込まれ、試合が崩れるようなことは、首脳陣も、そして仲間たちも全く想定していない。野茂が、最後まで投げる。それが、近鉄バファローズでの“当たり前”だった。

