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「国技館に悲鳴が…」「驚異の視聴率65.3%」伝説の横綱・千代の富士に、なぜ国民は熱狂したのか? 元NHK名物アナが「大将」と酒を酌み交わした夜
text by

藤井康生Yasuo Fujii
photograph byKYODO
posted2025/04/04 17:01

横綱昇進が決まり、同部屋の力士たちに担がれる千代の富士(1981年7月、当時26歳)
千代の富士は、横綱2場所目の昭和56年十一月場所で通算3回目の優勝を果たします。同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの位すべてで優勝したのは、大相撲史上初めての快挙でした。大関昇進を決めた千代の富士の初優勝は25歳の時でした。横綱昇進を決めた2回目の優勝は26歳でした。のちの大横綱への道を考えると決して早い優勝ではありません。
実は、千代の富士の31回の幕内最高優勝のうち、20代での優勝は12回、30を過ぎてからの優勝が19回もあります。45回も優勝を重ねた白鵬でさえ、30歳以降の優勝は12回です。脱臼しやすい肩の関節をもっと早く筋肉で固めていたら、出世も早く、優勝回数もはるかに多かったのではないかと考えてしまいます。
ところが本人は次のように話しました。
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「いや、何回も脱臼を重ねたからこそ最後の手段で筋肉を付けようとなった。2回や3回の脱臼なら、腕立て伏せ毎日1000回なんてできないよ。せいぜい平幕(力士)で終わっていたと思うよ」
それが正直な気持ちならば、まさに「災い転じて福となす」ではないかと思います。
日本中が熱狂したウルフフィーバー
千代の富士関は私より1つ半ほど年上です。50歳を過ぎた頃から、何度か食事にも誘ってもらいました。もちろん九重親方時代です。飲ませ上手で、昔話も面白い。うっかり話に夢中になり油断をしていると、帰る時にはヘロヘロで千鳥足にさせられているということがよくありました。現役時代から周りは「大将、大将」と呼んでいました。飲んで食事をしている時でも「大将」です。言葉の端々にプライドが存在していました。
昭和52(1977)年に製作された、ジョン・トラボルタ主演のアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本でも話題を呼びました。昭和56年、千代の富士が関脇から大関、横綱へと一気に駆け上がり、日本中を熱狂させた現象は「ウルフフィーバー」と名付けられました。ライバルと呼べる存在が見つからなかったためか、「○○時代」という言い方はされませんでしたが、歴史に残る「小さな大横綱」でした。

〈全2回→前編から続く〉

