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「競走部同期はコンサルに内定しました」“私大最難関”早大政経学部で箱根駅伝を3回走ったランナー「就活か、陸上か…迷いました」卒業後の進路は?
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生島淳Jun Ikushima
photograph byJIJI PRESS
posted2025/04/04 11:08
2024年1月、伊福陽太(当時3年)は自身2度目の箱根駅伝を走る
そして2024年春、私は担当する授業で伊福君と出会う。選手とメディアという関係から、教員と学生という関係性が加わった。
毎週、会話を交わすなかで、秋には「箱根駅伝と、そのあとのマラソンに合わせて練習を進めていきます」という話を聞いていた。3度目となる8区、勝手知ったる区間、期待も大きかった。ところが、「異変」が起きた。
「起きてからふつうに食事をして、7時過ぎからアップを始めたら、急に体調が悪くなったんです。まじか……と思いながらも、メンバーの当日変更は6時50分までなので、間に合わず、走るしかありませんでした。スタートする前に次の中継所に待機していたトレーナーさんに、『こういう状態で行くので、申し訳ないんですが、手当ての準備をしておいてもらえますか』と連絡しておきました」
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8区は遊行寺の坂という難所があり、難コースのひとつだ。体調が悪いまま走ったら、人はどんな状態になるのだろうか?
「7区の伊藤大志からたすきを受け取る時に、大志の後ろについていた運営管理車の花田さんから『伊福、笑顔でね!』という声が飛んできました。目が死んで、顔が引きつっていたので、たすきを受け取る時からサングラスをして、なるべく分からないようにしていました。走り出してからは、もう目の前しか見えないです。結果としてはひとり抜きましたけど、その選手の背中を目印にということはなかったです。自分としてはたすきをつなげただけで良かったです」
4月から住友電工で競技を続ける
レースが終わって、大手町の読売新聞本社のミックスゾーンで会うと、彼は横になっていて、傍には救護員がついていた。幸い、意識はしっかりしていて話は出来る状態だったので、私もかがんで話を聞いたが、横になっているのを見るのは辛かった。
状態が落ち着き、彼が後輩の安江悠登(2年)に付き添われて帰るとき、救護員に向かって「ありがとうございました」と話すのを聞いて、胸が熱くなった。
このあと、2月には大阪マラソンに出場したが、箱根駅伝のダメージが残っていて、棄権。望んでいたような形で早稲田での競技生活はしめくくれなかったものの、満たされた4年間だったという。


