ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「決勝当日にボイコット」「ナイフで刺され死去」ブルーザー・ブロディは新日本プロレスの“救世主”だったのか? アントニオ猪木と衝突した経緯
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/03/21 11:00

1985年に新日本プロレスに移籍し、アントニオ猪木との抗争を繰り広げたブルーザー・ブロディ
こうしたブロディの過剰な自己主張は次第にエスカレート。試合の中だけでなく、リングを降りてからも試合順やマッチメイクなど、ことあるごとに注文をつけ、ついにはプロレス中継の視聴率も気にし始め、テレビ番組のプログラムにまで口を出すようになった。救世主を自負するブロディからすれば、「俺は新日本を助けに来たんだ。俺の考え通りにすることが、新日本のためになるんだ」という考えだったが、いちレスラーがプロデュース面にまで口を出すことは越権行為。
当初は、そんなブロディの要求をしぶしぶ飲んできた新日本だが、ガマンの限界に達するのに時間はかからなかった。新日移籍から半年も経つと、ブロディと新日はお互いに不信感を抱き出し、その年の年末、ついにそれが爆発する。
前代未聞の“当日ボイコット”事件
’85年の年末、ブロディはジミー・スヌーカとのコンビで「IWGPタッグリーグ戦」に出場。圧倒的な強さで決勝進出をはたすが、その優勝戦が組まれた12・12仙台大会を、なんと試合当日にボイコットするという前代未聞の事件を起こしてしまったのだ。
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仙台大会では、リーグ戦1位のブロディ&スヌーカが、同率2位だったアントニオ猪木&坂口征二、藤波辰巳&木村健悟の勝者と決勝戦で当たる予定だったが、ブロディは試合当日に新日本が藤波&木村を優勝させようとしている動きを知ってしまったと言われている。3月の移籍以来、新日本再建に全身全霊を懸けてきたと自負していたブロディにとって、1年の最後の大舞台で自分の考えと相反することをされ、“新日本に裏切られた”と感じてしまったのだろう。
しかし、これはメインイベンターとして絶対にやってはならぬこと。このボイコットによりブロディの信用は失墜。半年後、一度は新日本との関係を修復するが、’86年の年末、今度は来日が決まっていながらシリーズ参戦をドタキャンし、ついに修復不可能となってしまった。
こうして二度にわたるボイコットで新日本との関係が切れ、半ば日本マット界追放のようなかたちとなったブロディだったが、それから約1年後の87年10月、「新日本に行ったのは人生最大のミステークだった」とジャイアント馬場に謝罪を入れ、古巣の全日本プロレスにカムバックする。
レスラー心理を知り尽くす馬場は、日本という外国人レスラーにとって重要なマーケットを失ったブロディに“恩赦”を与えることで改心させ、エゴイストとしての面を封じ込ませたのだ。
そして大物ブロディを労せず再び獲得した馬場は勝負に出る。かつて“超獣コンビ”として、プロレス史上最強タッグチームの名をほしいままにした、スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの直接対決を「ファン投票」という形で、’88年8月29日の日本武道館で組むことを決めたのだ。