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「決勝当日にボイコット」「ナイフで刺され死去」ブルーザー・ブロディは新日本プロレスの“救世主”だったのか? アントニオ猪木と衝突した経緯

posted2025/03/21 11:00

 
「決勝当日にボイコット」「ナイフで刺され死去」ブルーザー・ブロディは新日本プロレスの“救世主”だったのか? アントニオ猪木と衝突した経緯<Number Web> photograph by AFLO

1985年に新日本プロレスに移籍し、アントニオ猪木との抗争を繰り広げたブルーザー・ブロディ

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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AFLO

「お~と、これはブルーザー・ブロディでありましょうか! カメラがブロディをとらえている! 左手にチェーン、右手に花束。ブルーザー・ブロディがいま入ってまいります!」

 今からちょうど40年前、1985年3・21新日本プロレス後楽園ホール大会。あの日の衝撃を古舘伊知郎の名実況とともにハッキリと記憶している昭和のプロレスファンも数多くいることだろう。当時、全日本プロレスでスタン・ハンセンと並ぶ最強外国人レスラーの名をほしいままにしていたブルーザー・ブロディが突如、スーツ姿の正装で新日本のリングに登場。アントニオ猪木との対戦をアピールしたその大デモンストレーションは、’85年のプロレス界で一番の事件だった。

 ファンを騒然とさせたのは、何もライバル団体のエース級外国人レスラーが移籍してきたからというだけではない。ブロディと言えば、ファンから“最強”の呼び声も高い強豪中の強豪であると同時に、独自の哲学を持った、じつにミステリアスで特異なレスラーだったからだ。この男が猪木と闘ったらどうなるのか? ファンは、その未知なる化学反応を感じとり、興奮したのである。

プロレス界の“主従関係”を変えようとした

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 ブロディは“キングコング”の異名通り、リング上ではチェーンを振り回し大暴れする怪物レスラーであったが、ひとたびリングを下りると、もの静かで、哲学者を思わせる人物だった。そんなジキルとハイドを思わせる二面性を持ち、知性と凶暴性が同居するブロディを人は“インテリジェンス・モンスター”と呼ぶようになった。

 ブロディはもともとプロフットボーラーから、地元テキサス州ダラスの新聞でコラムニストをしていたという異色の経歴の持ち主。そんな彼が、“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックにスカウトされてプロレスラーになると、プロレスという純粋な競技とは違う、摩訶不思議なジャンルの虜になった。そしてブロディは、世界中どこでもトップを取れる一流レスラーになってからも大きな団体には所属せず、小さな団体、経営の苦しい団体にあえて行き、自分が救世主となることを一番のよろこびとしていた。

 こうした金銭度外視の価値観を持つ一方で、ブロディはビジネスで決して妥協しない一面も持っていた。ブロディはインタビューで「俺は世界各地でブロディ革命を起こす。俺の行く先々で、プロレス界を変えていく」と語っていたが、それはリング内で自分がトップに立つという意味だけではなかった。

 プロレスでは、映画制作で言うところの監督・脚本家であるマッチメイカー(ブッカー)が絶対的な権力者で、レスラーは忠実にその“役”を演じることが求められる。しかしブロディは、プロモーター側とレスラーというある種の主従関係をも変えようとしていた。ブロディはいちレスラーでありながら、「俺こそが、このリングをクリエイトするんだ」という意識が極めて強かったのだ。

【次ページ】 ブロディはなぜ新日本に移籍したのか?

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