ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「決勝当日にボイコット」「ナイフで刺され死去」ブルーザー・ブロディは新日本プロレスの“救世主”だったのか? アントニオ猪木と衝突した経緯
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/03/21 11:00

1985年に新日本プロレスに移籍し、アントニオ猪木との抗争を繰り広げたブルーザー・ブロディ
ブロディはなぜ新日本に移籍したのか?
このように救世主と革命家という、二つの顔を持っていたブロディ。1985年の新日本プロレス移籍も、彼の“救世主”たる行動によるものだった。
ブロディが移籍する前の新日本プロレスは、80年代初頭から大ブームを巻き起こしていたが、83年8月に人気絶頂のタイガーマスクが引退(新日離脱)、さらに84年には前田日明らUWF勢、長州力率いる維新軍も離脱し、ブームから一転、旗揚げ以来最大の窮地を迎えていた。
その起死回生策として、新日本はブロディの引き抜きを画策。山本小鉄がテキサス州サンアントニオの自宅に赴き直接交渉を行なった。そこで新日本の窮状を聞き、「力を貸してほしい」と頼まれたブロディは、自らのアイデンティティをくすぐられ、「これを救えるのは俺だけだ」と、使命感に駆られて移籍を決意したと言われている。
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そして新日本移籍を決意したブロディは、全日本での最後の試合となる85年3・9両国国技館大会で、長州力とタッグで初対決。この試合でブロディは長州の技をまったく受けず、一方的に痛めつける大暴れを見せて、全日本に別れを告げた。もともとブロディは「プロレスラーは身体が大きくなければならない」という考えの持ち主であり、身体の小さな長州がトップ扱いされることに不満を抱いていたこともあり、最後に一方的な試合をして自分の価値を高めてから新日本に移籍したのだ。
この長州戦のわずか12日後、ブロディはベートーヴェンの『運命』の曲とともに新日本にサプライズ登場。前年、新日本を捨てて全日本へと主戦場を移した長州をボコボコにしたブロディの参戦を新日本ファンは大歓迎し、満場の「ブロディ」コールで迎えた。大歓声と拍手の中、右手に花束を抱え、左手を高々と突き上げるブロディの姿は、まさに救世主降臨だった。
猪木vsブロディは大反響を呼んだが…
こうして始まったアントニオ猪木vsブルーザー・ブロディの抗争は、ファンの大反響を呼び、新日本は息を吹き返すことに成功した。しかし、救世主であると同時に、革命家でありエゴイストであるブロディと新日本はたびたび衝突。その関係はしだいにギクシャクとしたものになっていく。
昭和の新日本プロレスとは、アントニオ猪木が主演・監督・脚本・総合演出を手がけるジャンルだと考えるとわかりやすい。歴代の外国人エースレスラーたちは、タイガー・ジェット・シンもスタン・ハンセンもハルク・ホーガンも、猪木が自分の手のひらに乗せて光らせてきた、いわば“猪木の作品”だ。しかし、ブロディだけは猪木の手のひらに乗ることを拒んだ。ブロディもまた猪木と同様に「自分こそが最高の演出家」という強烈な自負を持っており、逆に猪木を自分の作品にしようとした。このエゴとエゴのぶつかり合いはファンの興奮を呼んだが、猪木は自分の思う通りに動かないブロディにいら立ちを募らせていく。