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超弱小校から“まさかのドラフト指名”「なんであんたクビにならんの?」二軍で6年間、戦力外寸前だった男が“ホークス1億円投手”になるまで
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田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2025/02/08 11:01
かつてホークスのエースとして活躍した田之上慶三郎
そう考えていた3年生の6月頃から、ホークスの石川正二スカウトが高校のグラウンドに足を運ぶようになった。石川スカウトは、身長180cm、体重60kg台という痩身ながら、しなやかなフォームで投げる右腕に可能性を見たのだろう。
1989年の秋。当時のドラフト会議では指名できる選手が1球団6名までと制限された。同時に、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」も認められていた。ドラフト会議から数日後に自宅の電話が鳴った。こうして田之上はダイエーに入団した。
入団2年で同期が半分クビ
超弱小校からプロ野球の世界へ。目に飛び込んでくるものすべてが桁違いに映った。
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「甲子園にも出るような野球強豪校で揉まれていた人ばかり。そんなレベルで野球をやったことのない僕は、とりあえず見様見真似で練習してました」
とはいえ、そこはライバルひしめくプロ野球の世界。“とりあえず周囲に合わせて”一軍にたどりつけるほど甘くはない。その現実を痛感したのは入団2年目のオフだった。
「同期には僕を含めて6人、高卒入団がいたんです。それがたった2年で半分の3人がクビになってしまった」
自分がはっきりとした意思を持ち、どんな野球選手であるべきか、どんな野球人生を歩みたいのかを真剣に考えるようになった。
「プロの世界は誘惑もあります。それを断ると『もうオマエとは付き合えない』などと言う人もいました。それは本当の友達じゃない。一方で、僕を理解してくれる人も多かった。特に1学年上の濱涯(泰司)さん(現ソフトバンク打撃投手)には、同じ鹿児島出身だったこともあり、お世話になりました。遊びにもよく連れていってもらったけど、濱涯さんは野球と遊びをはっきり分けていた。一緒に寮暮らしをしているときは、夜中に僕がこうやって投げたらいいかもと思いついたら、部屋を訪ねて『ちょっといいですか』と引っ張り出して、室内練習場でキャッチボールに付き合ってもらったこともありました」
母「なんであんたクビにならんのかね」
それでも一軍は果てしなく遠いまま。二軍でさえ目立った結果を残せずにいた。
「もう毎年、断崖絶壁の縁を歩いてて、ポンと押されたら落ちちゃう感じ。秋が来るたびに覚悟したし、母親からでさえ『なんであんたクビにならんのかね』って言われる始末。正直、自分でもクビにならない理由が分からなかった」
一軍登板がないまま迎えた、7年目の96年。再び転機が訪れる。ダイエーに古賀英彦二軍監督が就任した。田之上は会うなり、こう言い放たれた。

