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91歳で死去「阪神OBの辛口解説よっさん」「じつはジャイアント馬場の初対戦相手」身長165cm、日本一監督だけでない…吉田義男“ホンマな記録”
posted2025/02/06 06:00
阪神監督時代の吉田義男。91年の人生を振り返ると非常に興味深いエピソードがある
text by

広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kazuhito Yamada
例年2月はプロ野球の春季キャンプ地を回っており、今年は沖縄県にいる。取材を終わって高速バスに乗り込んでしばらくすると、後ろの座席の方から「よっさん、死んでんて!」という声が上がった。
「え? よっさんが?」「ホンマか?」
このバスは阪神タイガースの春季キャンプ地である宜野座を経由している。キャンプ見物をした阪神ファンが、訃報に接して声を上げたのだ。
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「よっさん」とは吉田義男(享年91歳)。関西では、いまだに「よっさん」で通用する。
身長165センチ…14年間もショートを守り続けた
吉田義男は1933年7月生まれ。同世代には、なにかと因縁が深かった大投手金田正一、怪童中西太、大洋の大エース秋山登などがいる。京都市の街中に生まれ山城高から立命館大に進むも中退して1953年、大阪タイガースに入団する。
165cmは当時としても小柄だったが、1年目から遊撃のレギュラーを獲得する。タイガースには戦前、156cmと吉田よりさらに小さい皆川定之という遊撃手がいて、機敏な動きから「とびっちょ皆川」と言われて人気を博したが、吉田はその後継者という印象だった。
入団当初は11歳年長の白坂長栄と二遊間を組んだ。守備範囲の広い吉田は、多くの打球を処理、併殺も多かった。白坂が引退すると、今度は6歳年下の鎌田実とコンビを組んだ。吉田は守備範囲はやや狭くなったが、確実性を増していて、手数の多い鎌田とともに守備の要となった。
吉田は1953年から66年まで、実に14年間も正遊撃手のポジションを維持し続け、いつからかスポーツ紙を中心に「今牛若丸」との異名を取った。
1歳年上の広岡達朗とは、同じ遊撃手として大学時代から存在を意識し合う仲だった。早稲田大を卒業した広岡は1年目から3割を打ち、ベストナイン。大柄で華麗なグラブさばきの広岡はいきなりスターとなったが、その後のキャリアでは吉田がはるかに上回っていた。
荒川バッキー乱闘事件で吉田が見せた闘争心
しかし66年に大型遊撃手の藤田平が入団すると、翌年吉田は二塁にコンバートされ、1969年限りで引退した。遊撃手としての出場試合数1740試合は長くNPB記録だったが、今は坂本勇人(2046試合)、後輩の鳥谷敬(1777試合)、石井琢朗(1767試合)に次いで4位となっている。
出場試合数は2007試合で、通算安打は1864本。まだ「名球会」がなかった時代であり、吉田は恬淡として引退したが、余力を残して身を引いたのであり、2000本を打つべき選手だったと思う。
筆者が強烈に覚えているのは1968年9月18日、甲子園での巨人-阪神戦である。

